2009年4月版 秦氏研究
    中世賤民と秦部 後戸の神は鬼を鎮める

荒神と弥勒 ウラハタ幻視考

2003年、東京都大田区にある日蓮宗池上本門寺墓地改葬にともなってある著名にして謎の氏族の人骨が出土され、DNA分析が行われている。
氏族の名前は狩野氏。
狩野派→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%B4%BE

足利以来、御用画家狩野派として一家をなした木挽町狩野氏二代目常信、三代目周信(ちかのぶ)、そして九代目養信(やすのぶ)の人骨サンプルである。
狩野一族は渡来人・秦氏 の後裔であったとされている。

二代目と三代目のサンプルは劣化が激しくDNA分析は不可能だったため、唯一九代目狩野養信の遺骸だけが分子人類学者・篠田謙一らによって詳細にミトコンドリアDNA分析された結果、彼のハプログループタイプが特定された。
従って狩野養信サンプルは史上最古の氏名が明確な人骨サンプルである。

そのハプログループタイプは東アジアに多いAタイプで、さらにその中でA5タイプに入ることがわかった。

ハプロタイプA5とは・・・。

2 ハプロタイプA5とは?

ハプログループとは分子人類学、特に篠田謙一氏の用いる人類学上の人種ミトコンドリアDNAのタイプ分け用語。

ハプログループには大別してA,B、D,F、G、HV、Mなどがあり、日本人に最も多いのはハプロタイプGである。HVは欧州人に多い形質。
詳細は『日本人になった祖先たち』などで。

さてグループAの中には南米大陸に多いA2、東アジアに多いA4,そして「朝鮮半島と日本列島のみに見られるA5などがある。

ハプログループBは日本人の七人にひとりの確率で存在し、四万年前の中国で派生し確定したとされる。
欧州型HVを持つものは日本人では1パーセントしか見つかっていない。そのほとんどは明治時代以後の来訪者と日本人の混血によるもので、それ以前は皆無と言ってさしつかえないらしい。なぜならミトコンドリアDNAは女性を介してのみ入ることがわかっており、明治以前に男性ならともかく女性が他国、他地域へ渡来、渡航、帰化する可能性はゼロだからである。

グループAは一般に”マンモス・ハンター”と呼ばれ、派生元はバイカル湖。マンモスを追って南下した北方系新アジア民族。古くは「新モンゴロイド」と呼ばれたものに相当するか?
A2はアジアからはみだしてアメリカ大陸へ渡ったアジア系民族のすべてに内在するタイプで、南米ナスカの少年遺体からも抽出された。
Fは東南アジアの最大勢力。
特殊なのはZで、世界的に珍しく、欧州とアジアにまたがる分布を持つことから双方をつなぐDNAと言われる。このタイプはなんとカムチャッカ先住民からも発見されるし、北欧からも。

渡来人?狩野養信から分析抽出されたA5タイプはアジアの中でも朝鮮半島と日本列島にしか存在しない、きわめて地域限定のタイプで、ミトコンドリア主根からの分岐は7000年前プラスマイナス2800年。非常に新しい形質である。



3 播磨の鉄とアメノヒボコ

播磨の鉄
『播磨国風土記』宍禾(しさわ)郡柏野里敷草村条 現・宍粟(しそう)市千種町
「草を敷きて神の座と為しき。故に敷草といふ。此の村に山あり。南方に去ること十里ばかり、二町ばかりの沢あり。此の沢に菅生じ、笠に最も好し。檜・杉・栗、黄蓮・黒葛生ふ。鉄を生ず。狼羆住む。」

同讃容(さよ)郡条 現・佐用郡
「鹿を放ちし山を鹿庭山(かにわ・やま)と号く。山の四面に十二の谷あり。皆、鉄を生す。難波の豊前の朝廷(孝徳天皇在位645〜654)に始めて進りき。見顕しし人は別部の犬、其の孫等奉発り(たてまつり)初めき。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

播磨の宍粟や佐用と言えば中国山地の山奥、となりはすぐに鳥取県である。
中世には砂鉄による蹈鞴製鉄が広く行われていた。
製鉄遺跡だけで144カ所確認されている。
中国山地のなだらかな丘陵を抜ければ豊岡、出石からもほど近い。
このラインはアメノヒボコの日本海側と吉備、播磨を結ぶ道である。
つまり、瀬戸内における製鉄技術の渡来コースだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

播磨国風土記に神埼郡八千種の戦いが記録されている。
新羅の王子アメノヒボコと在地神・伊和大神の激しい争いである。
伊和の神とは出雲のオオナムチの別名である。播磨一の宮伊和神社祭神である。
この「伊和」とは「岩」の神、つまり山の資源を指す言葉であろう。
砂鉄資源を巡る渡来と先住の奪い合いである。
この記事から7世紀中頃までには山陰〜山陽地域にはすでに蹈鞴製鉄が渡来していることがわかる。

今、この一帯は「天児屋(てんごや)たたら公園」として蹈鞴遺跡の遺跡公園となっている。

千種の鉄は明治期まで使用され、備前長船の鉄として非常に著名である。

播磨は6世紀まで物部氏の管轄であったが、守屋死後、蘇我氏の管理下に入り、秦氏によって再開発された。
つまりこのエピソードにはアメノヒボコと秦氏系渡来民との関係がさりげなく隠されていることになる。
同じ播磨の加古川市に秦氏が帰依した鶴林寺がある。
生野銀山があり、姫路鋳物師がいて、陰陽道と傀儡(くぐつ)のメッカ・・・それが播磨とアメノヒボコを結んでいる。

参考文献 沖浦和光・川上隆志『渡来の民と日本文化』現代書館 2008




4 秦氏と大蔵(蔵役人と渡来の関係)


1 秦氏 人骨DNAの分析結果


秦大蔵 はたのおおくら

秦大蔵造万里(はた・の・おおくらのみやっこ・まり)『日本書紀』斉明四年六月条
秦大蔵連弥智(はた・の・おおくらのむらじ・みち)『大日本古文書』
秦大津父(はた・の・おおつち)「大蔵の官に任ぜらる」『日本書紀』欽明前紀
秦公酒(はた・の・きみ・さけ)「大蔵の長官に任ぜらる」『新撰姓氏録』山城国諸蕃
秦伴造(はた・の・とものみやっこ)「大蔵椽に任ず」『日本書紀』欽明元年八月条
秦忌寸(はた・の・いみき)「融通王(弓月王)の四世孫大蔵秦公志勝の後也」『新撰姓氏録』左京諸蕃
秦永岑 大蔵史生(おおくらししょう) 『平安遺文』巻1
秦雪持 大蔵大主鎰(おおくらだいしゅいつ)『平安遺文』巻1
秦忠雄 大蔵大典鎰(おおくらだいてんいつ) 『平安遺文』巻2
秦奥世 大蔵省掌(おおくらしょうしょう)『平安遺文』巻1
秦前広橋 大蔵少録(おおくらしょうさかん)『平安遺文』巻2
太秦連雅 大蔵大録(おおくらだいさかん) 『平安遺文』巻2
秦貞世 内倉寮蔵人(うちつくらりょうくろうど)『平安遺文』巻1
このように秦氏のほとんどが大蔵官吏である。

一方阿智直子孫である漢氏の多くは『古事記』履中段の「阿智直始めて蔵官に任じ」記事以来、多くが内蔵官吏となっている。以後、漢氏系坂上氏の専門となった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

蔵官とは朝廷の財政機関である。
最近まで日本政府も大蔵省が存在した。
もとは蔵ひとつの機関で、それが大蔵と内蔵に分離。
履中紀も履中記も、当時から蔵官があったかどうかは疑問ではあるが、以来、長きにわたって氏族の役職は変えられなかったことは見て取れる。

本来、蔵は内蔵のみであった。
蔵とは倉・倉庫であり、椋でもある。
屯倉のような租税の徴収機関で、一時格納庫である。
その機構がやがて複雑化するに伴って大蔵・内蔵・斎蔵(いみくら・ただしこの「三蔵分立」伝承はあくまで伝承で、斎部(いんべ)氏の地位向上のための附会であろう。したがって実際には大蔵と内蔵のみが機能していたと見てよい(直木孝次郎))が分立した。

斎部氏のような附会例を見れば、秦氏の川勝伝承や大津父伝承、また秦の始皇帝末裔伝説なども、あるいは漢氏の阿智使主子孫・中国漢王朝末裔伝承もみな、後世の地位向上のための恣意的作為と見てまず間違いないことが見えてくる。

直木孝次郎氏は蔵の成立を、史書にあるような雄略時代には求めず、欽明朝に推定している。

思うに、もともとの蔵の司であった漢氏は蘇我氏の手足となって働いた。その偏った権勢に対抗させるための秦氏大蔵という構想が欽明〜聖徳太子の脳裏にあったのではなかろうか。
蘇我氏への対抗と言うよりも、並立による平等・・・それによって一氏族の専横を権勢する役目が大蔵にはあったのかも知れない。今の二大政党による民主主義にも似た均等の概念が当時生まれていた可能性がある。




5 秦河勝伝説


秦氏伝承
○『日本書紀』応神天皇13年
「是歳、弓月君、百済より来帰り。因りて奏して曰さく、『臣、己が国の人夫百余二十県を領ゐて帰化
このとし、ゆつきのきみ まうけり       やつがれ、おのれのたみももあまりはたちのこおり 
く。然れども新羅人の拒くに因り皆加羅に留れり』とまうす。爰に葛城襲津彦を遣して、弓月の民を加羅
        ふせくにより          ここに かづらぎのそつびこをつかわして、ゆつき
に召す。然れども三年経るまでに、襲津彦来ず」



(留意事項:二十のことを「はたち」と言う。「はた」はこのほかに「とえはたえ」などと使われ必ずしも二十のみ指すにはとどまらず、概して「多い」ことを言うと考える。朝鮮語における「巨」の読みをやはりPada、Pataと言う。大和岩雄や川村湊は秦氏の「はた」の義のひとつとして「多い」をあげている。)
「新羅人の拒くに因り」とは、なんらかの要因で新羅が秦一族の渡海を阻んだということである。人夫120人とは様々な技術者集団と秦氏家臣団であろう。必ずしもこれが「秦氏同族」だったとは考えられず、秦氏が寄せ集めた技術者たちと見る。それらが秦氏の下に管理され、豊前で秦姓を名乗ると見る。これがいわゆる秦人(はたびと)となるのであろう。

○『日本書紀』応神天皇16年
「平群木宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣わす。(中略)乃ち弓月の人夫を率て、襲津彦と共に来り。」        

○『新撰姓氏録』左京諸蕃および山城諸蕃
弓月君、秦氏の祖。秦の始皇帝の後裔なり。

○弓月王、応神天皇14年
「百済より百二十七県の民衆一万八千六百七十余人統率して帰化し、・・・
弓月王の孫(秦)酒公は、秦氏諸族を率て蚕を養い、・・・絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益(うずまさ)と言う言葉で酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●秦河勝伝承
河勝に関する伝説は『日本書紀』に三箇所しか書かれていない。

○推古11年11月
「皇太子、諸の大夫に謂りて曰はく、「我、尊き仏像有りてり。誰か是の像を得て恭拝らむ」とのたまふ。時に、秦造河勝進みて曰さく、「臣、拝みまつらむ」とまうす。便に仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。」
ひつぎのみこ、もろもろのまえつきみたちにかたりてのたまわく 「われ、とうときほとけのみかた たもてり。たれかこのみかたをえてみやびまつらむ」とのたまう。ときに、はたのみやつこ・かわかつすすみて「やつがれ、おがみまつらむ」とまうす。すでにみかたをうく。よりてはちのおかでらをつくる。

蜂岡寺とは現在の広隆寺であると言われている。
蜂岡とは、葛野(かどの・京都市北西部)の太秦の岡にたくさんの楓が生えていたため、そこに蜂が多かったためだと考えられる。楓は銅鉱床の土壌を好む指標植物で、秦氏と銅鉱山開発にゆえんの深い地名であると考えられる。葛野が聖徳太子によって楓野と呼ばれた事実が記紀にもある。「かどの」はもと「かづの」であり、「くずの」「桂野」でもある。蜂岡寺はのちに秦造河勝の戒名あるいは別名である「広隆」を冠して広隆寺と改名された。
推古時代に皇太子と言えば厩戸皇子(うまやとのみこ)である。
彼から下賜された仏像とはおそらく国宝・弥勒菩薩半跏思惟像であろう。この仏像は様式は完全に新羅様式で、素材は日本にしかない赤松であるから、まず新羅からの仏師が日本で作ったものであると考える。新羅のそっくりな半跏思惟像は金銅製である。.

○推古18年10月
「新羅・任那の使人、京に臻る。是の日に、額田部連比羅夫に命せて、新羅の客仰ふる荘馬の長とす。
           まういたる    ぬかたべのむらじひらぶ  まろことふるかざりうまのおさ
膳臣大伴を以て、任那の客仰ふる長とす。即ち阿斗の河辺の館に安置る。
かしわでのおみおおとも                  はべる
丁酉に、客等、朝廷を拝む。是に、秦造河勝・土師連菟に命せて、新羅の導者とす。」
ひのえとり                     はじのむらじ・うさぎ 

旧来、百済とのえにしが深い朝廷では、新羅からの客人もさることながら、新羅渡来人も、百済と比べて扱いはあまり芳しくなかったと見るのだが、ここでは非常に丁重に送迎した記録となっている。秦氏の重用がはかばかしくなかった要因のひとつに、やはり朝廷の百済偏重外交がうかがえる。任那とは加羅説と対馬説があり、もうひとつそもそも任那非存在説もあり、今ひとつはっきりした所在はわかっていない。対馬と見る説は興味深い。
額田部氏が馬牧管理者であったことはすでにこのブログの額田部氏の項で書き記した。比羅夫とは外交官のそれも海部系氏族によくある武人的名前であろう。膳臣は西の大伴氏と並ぶ東の雄族。土師氏も当ブログ各項に分析があるので検索されたい。

○皇極天皇7月
「秋七月に、東国の不尽河の辺の人大生部多、虫祭ることを村里の人に勧めて曰はく、「此は常世の神なり。此の神を祭る者は、富と寿とを致す」といふ。巫覡等、遂に詐きて、神語に託せて曰はく、「常世の神を祭らば、貧しき人は富を致し、老いたる人は還りて少ゆ」といふ。是に由りて、加勧めて、民の家の財宝を捨てしめ、酒を陳ねて、菜・六畜を路の側に陳ねて、呼はしめて曰はく、「新しき富人来れり」といふ。都鄙の人、常世の虫を取りて、清座に置きて、歌ひ舞ひて、福を求めて珍財を棄捨つ。都て益す所無くして、損り費ゆること極て甚だし。是に、葛野の秦河勝、民の惑はさるるを悪みて、大生部多を打つ。其の巫覡等、恐りて勧め祭ることを休む。時の人、便ち歌を作りて曰はく、
  太秦は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲らますも
此の虫は、常に橘の樹に生る。或いは曼椒に生る。其の長さ四寸余、其の大きさ頭指許。其の色緑にして有黒点なり。其の○(文字なし、かたち)全ら養蚕に似れり。」

この場合の大生部は駿河あたりの多氏の眷属であるかと言われている。
河勝は広隆寺も建て、聖徳太子とともに崇仏派である。また神社信仰でも常世神やカイコを神と崇める機織の祖でもある。それが鄙である東国の鉱山部族ふぜいが思いついた「似て非なる」アゲハの幼虫を神だ、常世だとふりかざし、それが中央の管理から遠くはなれた東国あたりに蔓延し始めているのを腹立たしくながめていたが、ついに切れて多を呼びつけて打ちのめしたというわけである。これが河勝が実際に行った事実であるかはやや眉唾ではある。ここには河勝ら秦氏の隠れた蓄財や名声へのやっかみも含まれているだろう。専横への横車とも見える。しかし、その秦氏も、中央では決して階級は高くなく、貴族と謂うよりはむしろ独占企業、大蔵管理という、中国的儒教では、重要であるのに軽視されてきた商業と金融官吏としてしか存在感はなかった。さらに単独乗り込み開発した自らの土地や田畑、河川、さらには家屋敷まで、引っ越してきた朝廷に謙譲させられている。(長岡京・平安京)

○『上宮聖徳太子伝補闕記』
「川勝(河勝)進みて大連(物部守屋)の頭を斬る」
一般に河勝が守屋の首級を取ったとは知られていない。『日本書紀』とはおきらかに違う。

○『風姿花伝』は河勝を申楽の祖と書き残している。
能の大成書である風姿花伝の作者である世阿弥は、自ら秦の姓を名乗り、その出自を杉木服部一族であるとしている。
しかし実際の観阿弥・世阿弥親子の出自は犬神人(いぬじにん)や下賎の出身であろうと多くの研究家が書いている。
能の先駆が申楽であったならば、それは当時、最下層の身分であるはずの芸能者しか考え付かない芸術だからであろう。
中国的儒教世界における芸能者は、日本では「くぐつの民」の生業であり、彼等はがんぜんとして被差別者であった。これは決定的である。くつがえしようがない。
彼等が春日大社や日吉大社の神職の血統を受け継ぐなどという自己申告は、実際には起こりえなかった時代である。まして杉木服部は伊賀上野あたりの草の民でもあり、やがて忍びになるしかない、下層民でもある。だから世阿弥の出自は矛盾に満ちていることになる。秦氏を名乗り、神職の出でありながら、くぐつもあり、草の民でもあるなどというのは、絶対にあり得ない。ゆえにこれは世阿弥の虚偽妄想であった。しかしながら、権威付けとして、その下層民たちを束ねる大本の頂点にいた伝説的人物・河勝にえにしを求めたに違いない。少なくとも室町時代には、秦氏そのものもそれほど権力もなくなっており、文句をつける者もいなくなっていたのだろう。秦氏は後世になってもいいように氏族名・名前を利用されたと見る。だから秦と名乗っている者のすべてが河勝や深草秦氏と直接関係があったとは言えないだろう。

コンツエルンの総元締めとして酒公がいて、その伝説的人物として創出されたのが秦河勝と聖徳太子ではなかろうか。

つまり、土建屋の大親分が、政界ではアンチ百済派だったために、金は利用はされても立身出世がままならない。せめて、これまでの貢献から、『日本書紀』に名を残して欲しいと大枚をつぎ込んだ結果、つまり仮冒で、ようやく三つのすばらしいエピソードが取り込まれたと、そういってしまうとお叱りを受けるだろうか?




6 宿神・摩多羅神 秦部と賤民そして密教の後戸(うしろど)


摩多羅神(またらじん)とは宿神のことを言うのであると川村湊や中沢新一や、さらには山本ひろ子たちが書いている。
実際、日光山輪王寺所蔵の摩多羅神肖像画などの多くの摩多羅神像には二人の童子とともに背景に北斗七星が描かれており、摩多羅神=宿神=星宿信仰の構図はまず間違いがなかろう。
しかしながら『風姿花伝』の申楽縁起も、金春禅竹『明宿集』も、摩多羅神の名はひとことも現れていない。みな、「宿神」として書き表される。
宿神は「守宮神(しゅぐうじん)」とも言われ、一般的には「セキジン」「しゃぐじ」「しゃくじん」とも言い習わされてきた。いわゆる諏訪のミシャグジーもまた宿神であり、その本性は荒神である。
荒神とは文字通り荒ぶる神であり、時にスサノオを指し、時に牛頭天王を指し、あるときは阿修羅を指す。つまりインドの神が本地である。
それはなにか?

彌永信美は諸母天=マターラ天の音写ではあるまいかと想像している。
『渓嵐拾葉集』は摩訶迦羅天=大地母神・マハーカーラであるとしている。
母なる神ならば女性となってしまうが、あきらかに男性像で描かれる。
これはおそらく同じ荒ぶる母神である鬼子母神=訶梨帝母やダキニ天が後世、よく似た神々が平民の間で習合してしまった結果ではないだろうか。
スサノオもまた日本では荒ぶる新羅の神として描かれることから祇園信仰・牛頭天王と習合したわけであり、密教の本地垂迹が、日本人的な一人歩きした結果である。
その本性はあくまでも「祇園」すなわちカーリー神に基点がある。

これらは秦氏の根本信仰である聖徳太子という聖人と弥勒菩薩という「静なる存在」とはまったく正反対の荒れ狂う神なのである。つまり、秦氏の存在自体が本来、弥勒や聖徳太子や聖なるものに見守られなければ存続できぬ荒ぶる存在だったためではあるまいか?陰と陽、すなわち陰陽五行観念がここには存在する。

山背の秦氏がスサノオや祇園を信仰した記録は見えないが、豊前の秦氏である宇佐辛島氏にはスサノオ祖神という伝承記録や系図がある。秦の始皇帝子孫だという仮冒からはスサノオとのつながりなど想像すべくもないが、日本の荒ぶる神として人口に膾炙しつくしたスサノオならばこそ、平民には理解されやすかったであろう。そうした大黒天=大国主的な気ままな本地垂迹、混同は、民間信仰にははいて捨てるほどある。

『風姿花伝』がひたすら隠す「後ろ戸」の神であるはずの摩多羅神(広隆寺や大酒神社で言う摩?羅神)こそが現れた悪神どもから「申楽」を以て払いのける歌舞音曲の神であり、それは風姿花伝書の「隠された花」なのではなかろうか?

なお、広隆寺牛祭の祝詞などが伝える摩?羅の文字には、??太子(なたたいし)のイメージもあったかも知れぬ。いずれにせよ、彼等はみな牛にまたがるのである。

ここに広隆寺牛祭の本性がある。
牛にまたがる神とはすなわち自然災害、猛威であり、それは摂理としての荒ぶる神の脅威なのである。つまり、牛祭もまた追儺であり、牛の供犠を必要とする「荒神鎮撫」なのではあるまいか?


7 追儺とは何か?



それでは牛の犠牲を必要とする追儺(ついな)、儺(な)とはいったいなんであろうか。

誰にでもわかりやすく一言で言えばそれは神霊を慰めることに他ならない。
要するに鎮撫であろう。

その対象はこの場合自然の猛威である。
もちろんそれは仏教の鎮撫と根本はなにひとつ変わりはない。
雨乞い、雨止み、日照り、風水害、蝗の害、虫害、疫病などなどの自然災害に対して無力だった時代には、巫女もかんなぎも医者であり、占星術者であり、祈祷師であるのだから、血を好む神への貢ぎと祈祷は彼等にまかされた。
血を好む神とは災害を引き起こし、多くの命を奪い去る自然である。
宿曜経が言うように災害(らごう)は血を好むのであるから、星宿を神として祟りと災厄を避けるために、人命や動物を捧げる。転ばぬ先の杖。いわゆる生贄である。

広隆寺牛祭の摩多羅神が牛の背中にうしろまえにまたがるのは、首のない牛を表すのではないか。

こうして見ると、宿神はなにも難しい哲学ではないこいとがわかるだろう。
宗教が難しいと感じるものではないことがわかる。
こむづかしい祝詞や経典の言葉は単なる装飾、粉飾、呪文に過ぎないのではないか?

諏訪大社における多氏風祝や神長官守矢家の御社宮司も、結局は守宮神であり、それは在地諏訪にもともとあった縄文からのミシャグジー=原始石神信仰という自然神への畏怖観念を、7・8世紀以降やってきた彼等が、先住者たちと融和するために取り込んで、弥生的祝詞をつけたり、権威や形式化したものであり、それは本来、平民たちが信じていたシャーマニズムの形式化したものであろう。これが奈良時代の国司の同化策である。神道が縄文的祭祀を捨てていないように見えるゆえんはここにある。言葉同様、祭祀も旧来のありものを使わねば、民意は自在にならない。つまり極めて政治的要素を奈良時代以降の神道は持っていたのではあるまいか?くぐつを手繰るルール・立法としての神祇統一が神道を生み出す。

阿蘇神社も同様である。ここも諏訪と同じく多氏眷属であるという阿蘇氏が入って国造となっている。
いずれも風の大祝である。風の大祝とはほかならぬ災害封じの神職に違いあるまい。阿蘇氏も諏訪氏も知事兼祭祀者である。つまり古い「まつりごと」が政治と祭祀の合体であることと一致するのである。それほど宗教は政治、シビリアンコントロールにおける大本なのであった。まつろわぬ縄文はこうして同化し、混血の結果日本人が完成してゆく。そもそもいいくるめられやすい日本人の大元はここに始まる。世界中の先住民も同じやりかたで同化したのだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここまでは古代史でもなく、歴史学でも、考古学でもない。これは平安時代以降顕著になった信仰分析であり、むしろ民俗学や中世宗教学の範疇である。
そして管理者秦氏の分析でもない。
摩多羅神や宿神や陰陽五行などはみな平安時代から広まる。
つまりこれらの信仰も観阿弥・世阿弥の『風姿花伝』も金春禅竹も、みな、本来の管理者・秦氏の信仰とは切り離す必要があるだろう。まして秦河勝と芸能の関係も一度後ろ戸へとおいて置く必要がある。これらは民間レベルで秦氏が利用された例だったに過ぎない。だから秦楽寺河勝墓説や坂越伝承などは、秦氏本来の伝承からはずしておく必要があるのである。
秦楽寺はもともとくぐつや犬神人のたむろする場所であった。そこから芸能者たちが作り出した空想、創作の伝説に過ぎないのだということをわかっておく必要があるかと思う。古代の秦氏がそれらを生み出すだけの祭祀的カリスマ性を持っていたことは間違いないだろうが、それらは古代史でもなく、むしろ秦氏を神秘な存在にしてしまうだけの障害となり得るのである。

さて、もうひとつ秦氏研究の障害として大きく研究者に立ちふさがるのが、秦氏伝説が持っているギリシャ神話的要素やキリスト教的要素、ユダヤ要素である。これらももちろん古代史ではなく、民間レベルでの後世の付会に過ぎないし、『日本書紀』の記述も同じであろう。
それらがどうやって河勝伝説。聖徳太子伝説の中に取り込まれて行ったかについて、さまざまな曲解、とんでも説が山ほど書かれている。神秘主義を好む人々がそれでけっこう楽しんでおられる。それはそれでけっこうである。
次回、この問題を取り上げる。

PS 宿神、摩多羅神の深淵は決して上記のような単純なものには留まらないのであるが、それではブログでは手があまるし、あまりに難しくなってしまう。そこで初心者のためにも、この程度でおさめておく必要があった。真摯に研究をつづけておられる研究者の方々には、あまりに断片的な捉え方であるとしかられるだろうが、今はこのくらいの説明にとどめておくこととする。
さらに深く考察したい方は以下の著作をおすすめしておく。
ただし、このシリーズの最後には再び宿神に戻ることになる。

中沢新一 『精霊の王』講談社 2003
山本ひろ子 『異神 中世日本の秘教的世界 上・下』ちくま学芸文庫 2003
川村湊  『闇の摩多羅神 変幻する異神の謎を追う』河出書房新社 2008
網野善彦 『異形の王権』平凡社 1986
服部幸雄 『後戸の神 芸能神信仰に関する一考察』岩波書店『文学』所収 1973
喜田貞吉 『太秦牛祭の変遷』 1920




8 法隆寺にあった救世観音像 聖徳太子は天智の虚構?



この項は天智天皇と白村江がキーポイントになる。
そして現在検証が進みつつある法隆寺の金堂の失われた仏像配置が特大のヒントになる。
聖徳太子がキリストの生誕伝承とあまりにも似ている部分を解明する。
?と思われる方も多いかもしれないが、それはともあれまず筆者の『日本書紀』』における6、7世紀くらいまでの・・・つまり天武以前の記述をきわめて疑う態度を申し述べておく。

誰も書くものがいなかったことだろうが、筆者は推古・厩戸の存在も、守屋の反乱も疑っている。

ではまず法隆寺金堂の本来の仏像の話から始めよう。
最近の金堂仏像修復作業では、非常にきわだった新事実がわかってきている。
というのは、中央の釈迦三尊像はともかくも、向かって左側に現在置かれている阿弥陀菩薩像の台座には、実は聖徳太子をモデルにしたと言われる救世観音像が立っていたことが証明されているのだ。
なぜならば、阿弥陀菩薩像を修復のために台座から降ろした時、台座の上にははっきりと円形のうるしの塗り残し後が発見された。その円の直径が数ある同時代の仏像の中で救世観音の円座直径とピッタリ合致したのである。(NHKテレビから)
阿弥陀如来像はあきらかに鎌倉様式の仏像であり、法隆寺金堂の建設された時代にはそこになかった
ことは間違いない。それらは何度にも渡る法隆寺焼失を繰り返す中で置きかえられて行った。また阿弥陀仏の蓮華台は四角形で、塗り残された円形部分にはまったくフィットしていない。つまりこの台座はあきらかに救世観音を意識してそのぶんだけうるしがぽっかりと塗り残されていたのである。

さらに、釈迦三尊像の背後にはあたかも後ろ戸の神のように、聖徳太子由来の玉虫厨子が置かれていたのだという。

つまり法隆寺金堂はあきらかに聖徳太子の遺物をメインに置くためのテーマ館であることがわかったのだ。

そしてその事業を執り行った時代が天智天皇が白村江で敗北して逃げ帰ったすぐあとの時代であることもわかった。

どういうことか?
学者たちは一様に、白村江敗北によって唐と新羅が攻めて来るという強迫観念にさいなまれた天智が、宗教の統一と、それをなしとげようとした聖徳太子を神聖化し、仏教による対唐へ一丸となる政治的方向性を強く打ち出そうとしたのだと考えている。ばらばらの宗教、ばらばらの方向を向いた豪族たちの寄せ集めに過ぎなかった天智時代までの大和朝廷。それがはっきりと見えてくる。朝廷はまだ十分に確立したとは言えなかったのである。
それを天智は、大陸とはじめて堂々と対面した聖徳太子という虚像としてクローズアップし、同時に太子が推し進めた新羅仏教によるまつりごと、イデオロギーの統一という方向性もクローズアップして、大陸の列強に立ち向かう体制を作り出そうとしたのである。
九州四王子山に始まる山城、水城などの土塁建築、そして都自体を大和の不便な後ろ戸である近江国に移動させたことからも、天智の強引な聖徳太子伝説の性急なクローズアップが手に取るように見えてきた。
まさにこの時代から太子信仰の大元が始まるのである。

さらに。向かって右には鎌倉時代の薬師如来があるが、その真横にもうひとつ天蓋をとりつけた後が見つかった。取り付けようの環が天井の梁に残されていたのである。そしてこの失われた仏像を寄贈した人物の記録が見つかる。それは天智の娘、持統天皇だったのだ。持統天皇は日本最初に生きて天皇を称した人物で、最初の火葬実践者である。夫である英雄・天武の死後、彼女の時代を経て日本書紀は完成する。つまり完成した時は違う女帝だったが、その成立までのほとんどの期間、彼女と藤原不比等には、その内容に影響力を持つことが可能だったと言っていい。しかも完成時の女帝も持統天皇の娘だった。つまり父・天智が行った聖徳太子聖人伝承の上塗りが彼女には可能だったと考えてよいだろう。

すなわち日本書紀の聖徳太子伝承は本当である可能性がほとんどなくなってくるのである。

ということは厩戸の皇子という名前自体も怪しくなる。

遣隋使以降、遣唐使のはじめのころ、日本の使者たちは、中国において膨大な書籍を、おおあわてで、買いこんだと書かれている。よほど目だったのであろう。わざわざ中国がそれを書き留めたのである。これらが日本書紀をはじめとする六国史の原本となったことは間違いあるまい。
となると、それらの歴史書や経典にまぎれてキリスト神話を含む、ユダヤの記述などもあったのかも知れない。
また、聖徳太子の四天王であった蘇我馬子、、秦河勝たちは渡来人であるならば、原典も読めたことだろう。なにより、遣隋使たちが持ちかえった史書を読まずとも、独自の海外貿易によって船人たちが仕込んできた民話や説話や聖書、外国の奇妙な話、珍話、あるいは中国が非常にえにしを以ていたローマ、インドの宗教、寓話、怪異譚などいくらでも知ることは可能であったはずである。
彼等の知識が天智に利用され、持統によってさらに脚色された可能性は非常に高い。

聖人として仕立て上げる事情はほかにもあった。
それはもちろん天智と藤原鎌足がクーデターによって殺害した蘇我本宗家の怨霊と祟りへのおびえである。
中でもゆえなくも残虐に殺した蘇我入鹿については、わざわざ「青い蓑笠を着た鬼」として『日本書紀』は内裏に出現させている。祟りを恐れる気遣いがそこに見えている。

そもそも祟り、怨霊信仰を平安遷都に持って来ることをこれまで学者たちは非常に嫌がっていて、怨霊信仰やらは平安時代からのブームだと言い続けてきたが、実は恭仁京がすでに怨霊をおそれて遷都されたことは定説となっている。

さて、気になるのは木島坐天照御魂神社の三柱鳥居であろうか。
これが三位一体のキリスト教からだという方もいるらしい。
ところがこの神社、ご神体がない神社として知られており、機織の縁から江戸時代、三井家財閥が随分と寄贈している。そしてその三井という大元である新羅神を祭る園城寺三井寺の三が大きなポイントと考えられるのである。秦氏が新羅系渡来人であったことと新羅神、善神社はもともと深く関わっている。キリスト教では機織もカイコもまったく縁がない。ましてイスラ井や元糾池での禊がユダヤ的洗礼池だなどというのは、禊池ならどんな神社にもあるわけで、偶然の一致に過ぎない。百歩譲っても上記のような知識から得られたものであることは間違いあるまい。

そもそも蘇我馬子時代には中国経由でシルクロード商人が奴婢として外来の黒人やらも連れてきており、そういう伝聞も十分考えられるわけである。

以上のように、珍しい外国の風習や習慣、宗教譚はグローバル外交の蘇我氏時代ならいくらでも手に入ったと考えられ、なにも秦氏に限ってローマやイスラエルからやってくる理由は見つからないのである。

そもそも秦河勝の存在自体が聖徳太子同様、伝説でしかない。それはもしや本人がいなくても作り出せるフィクションだったと言っていい。

もうひとつ、『日本書紀』のイザナギ・イザナミとユリシーズの酷似がある。
実はユリシーズにそっくりなお話は豊後の国にもある。
それは「百合若大臣」のお話である。
豊後の国王だった百合若は新羅へ攻めて大勝利するが、玄界灘の小島で疲れて寝ている間に家来においてけぼりをくらうという話。
ところが実は秦氏のある人物が豊後の国司だった時代がちゃんとあるのである。
まして豊後国は旧来よりボートピープルが多く潜入する場所である。外来の知識も入りやすかった。中世にもザビエルを向かえたり、代々海外に目を開く為政者がおさめる土地柄であった。それは海流のなせるわざでもあったが、新羅系秦氏のいたことも非常に大きかったのであろう。これはおとなり豊前の話であるがツヌガアラシトを祭る現人神社が豊前国香春(かわら・中沢新一はこれをかはると誤読している)にはあり、香春神社祭祀者には敦賀氏がいた。
またギリシャ神話・プロメテウスの火を祭にしたと言う国東のケベス祭なども存在する。
こうした類似は、知識から得られたと考えてよい。それは民間の海人族に顕著である。
もちろん中国から漂着したと言う徐福伝説やインドのヒンズー教やらの説話を彼等があちらで聞いてきた可能性も非常に高い。彼等・朝廷の枠外の民たちの元締めだったと思われる秦氏やらに、そうした伝聞が顕著に収集されていたと思われるのである。
それらはおもしろおかしく、のちの民話や寓話のようにして、貴族たちのあいだでも喧伝されたに違いない。娯楽のない時代に、そうした話が人々をやすらぎへと誘っていたことは想像に難くないのである。

考えて見れば、秦氏の子孫だと言う芸能者たちは秦氏の祖先を「あるち」とか「ある」とか言って、新羅の始祖そっくりに作り上げている。そういう情報を古代から中世の人々は実に漫画のように簡単に、広く知りえたのである。つまり現代人の数倍、外国について興味を持っていたということではなかろうか?われわれは知っているつもりで、実は台湾のことも、韓国のことも、今でもほとんどなにも知らない。つまり好奇心の度合いは、過去の不便な時代の人々のほうが旺盛だったと言えるはずである。

ようは『日本書紀』の書いていることをどこまで信じるかなのであろう。
中国とえにしを深めようとした蘇我時代、果たして儒教が嫌う女帝がいただろうか?
厩戸皇子という「聖人」も本当にいただろうか?
それは天智の意思と天武の意思のどちらがいつ持統天皇の中で表出したか、入れ替わり立ち代り、彼女は二人の意思の間でゆれうごく存在であっただろう。父と夫の、まるで正反対の意思の間で。ゆれる女帝を誘導できたのはただひとり藤原不比等しかいなかったのだ。

女帝でいい時代を作ったのは彼であり、それは外交なき政治の幕開けでもあったのであろう。
持統天皇以降だけが確実なのだ。
それは『続日本紀』からはまったく謎がなくなるのと同じである。
そして天皇家も、持統「天皇」から天皇家の祖先として認めているのも事実である。
それ以前のことは、彼等はあずかり知らない推測の世界に過ぎないのであろう。
私たちは紙芝居を読まされているのかも知れまい?





9 秦氏研究の方向性




「百合若大臣」伝説に伴う豊後国司となった秦氏の人物は、葛野の従六位上、太秦公宿祢相益(うずまさのきみ・すくね・すけます)である(井上満郎1987)。『平安遺文』の中に彼の家族である太秦公行康(ゆきやす)という人物とともに葛野郡上林郷小野村の土地保有者としての土地売買目録が残っている。
これによれば、同じ秦氏改姓者である朝原有岑(あさはらの・ありみね)という人物から行康が土地を買った記録があり、そこが今の京都市北区小野であろうことがわかっている。
秦氏の保有地が同じ秦氏の者に売り買いされた貴重な記録である。このように平安時代の後半に至っても、秦氏は葛野、嵯峨野一帯に住み続けており、身分も従五位以下で官僚の一角をなしている人物がいる。

ここまでの分析では秦氏研究の障害である、民間での粉飾伝説という厚着させられた部分をそぎ落とす作業をさせていただいた。秦氏研究の障害は主に二つであった。

@ 民間における勝手な秦氏像の造作
A 秦氏に伴う被差別民の存在への研究者側の勝手な遠慮

Aについては、井上満郎のようにちゃんと頭の中を整理しておかねばならないだろう。
つまり被差別問題の今とそれ以前をきっちり分けておくことが大事である。江戸時代に顕著な封建制度下での「えた・ひにん」、あるいは明治時代の官憲の警備利便性に始まるサンカといったいわゆる「賎民」思想と、儒教影響の少なかった中世以前の差別を整理して理解しておく必要がある。そうすると、いわゆる秦氏と同和につながりを持たせる必要がなくなり、研究は飛躍的に進むこととなるようである。

これまでの学者にとってこの問題は、学究に二の足を踏ませてきたのは非常に残念と言わねばならない。
同時に京都市が文化財保護都市で、世界遺産に指定されたことは今後の考古学的進展にとっても難しい問題となっている。葛野発掘、深草発掘という秦氏研究に不可欠な遺物の発見はあまり期待できなくなっている。

文献での分析には限りがある。
まして『日本書紀』『古事記』にはすべてとは言わないまでも、かなりの造作がある。持統天皇即位で終わってしまう『日本書紀』では実はなにも確実な過去は見つからないと思わねば仕方がない。

秦氏に関しては北野廃寺の最近の発掘があるが、それ以後はこれといった進歩は見られないようだ。
北野の「野寺」という墨書が書かれていた土器破片の出土は、しかし記録にある広隆寺の前身の存在を裏付けた。野寺はいわゆる北野寺という意味であり、それは秦氏の寺である蜂岡寺の移転前にあった場所、ということになり、秦氏の居住地がかなり東にまで広がっていたことを表していることとなる。

また上記の小野であるが、ここに秦氏らとも住んでいたと思われる近江の小野氏と秦氏の共存関係を考えるうえで大事だ。同時に京都市北東部にいたと考えられる出雲氏、あるいは秦氏と強く宗教的に結びついたと考えられる息長丹生氏の問題もある。

もうひとつ秦氏の多くが改姓した問題もある。
それはなぜか。

そしてなぜ「はだ」という氏族名を名乗ったか?に関わる百済系漢(あや)氏とのライバル関係問題。これも重要なポイントだろう。
なによりも『日本書紀』が新羅系であるはずの秦氏を「百済より来帰」したと書いたのかも問題。
さらには弓月君という人物の存在性。融通王とは?ユズとの関わり。聖徳太子をなぜ月読神社に祭ったか?松尾神社と秦酒公の実在性。紀伊郡深草の秦氏と大津父やいろぐの実在性。物部守屋死後の秦氏が下賜された土地での居住問題。そして考古学的には葛野の前方後円墳である蛇塚、段ノ山、天塚などの古墳群の分析など。大蔵官吏としての秦氏。最後に、最初の入植地であったと思われる豊前・長門における銅山開発と金銅大仏建立ブームの問題。
さらに信仰問題としては稲荷、八幡。

最後にこれらすべてをつなぐ神である宿神という日本人の祭祀すべてに関わる大問題にまでいきつけるかどうか?後半へ続く。
後半への導入は京都言葉における「ゆう」から始めることになる。


筆者が目論んでいるのは秦氏本体の、殖産興業者、鉱山開発者、そして大蔵官僚としての大和朝廷への高い貢献度の見直しであり、それはそのまま、深い差別の霧の中に包まれてきた秦一族の復権へとわたしたちを導いてくれることであろう。
多くの粉飾をそぎ落とした時、始めて秦氏という原石、渡来と言う原石の輝きは表出するだろう。そして彼等が、言われてきたほどに猥雑で、解明しにくい、難しい存在ではないことがわかっていただけると思う。
歴史学者のこれまでの被差別問題への遠慮はまるで勘違いだった。それらはかえって彼等のすばらしい実績にふたをしてしまう行為だったと思う。筆者のように部落のある都市にいくらか住み、働いた者にとって、この問題は気を使うほうがおかしい、それこそが差別そのものの本体であると感じる次第である。むしろそのような貴重な歴史の中に存続した彼等をこそ友にし、尊敬することが渡来研究の近道になることと信じている。

筆者の祖先もまた、相模の波多野一族から出る大友氏の臣下であった。「はだの」。
秦氏の秦の文字よりも先に「はだ」という音読がある。
漢よりも先に「あや」があったのと同じである。
文字は意味を持ち、そこに作為が生じる。いずれも中国の王国名を冠したのである。
だからといって、彼等が中国から来たとは決してならない。
それを仮冒というのである。
そうした行いは日本のすべての氏族に共通しており、『日本書紀』『古事記』『新撰姓氏録』はあくまで彼等の自己申告の上に成り立っている。記紀の前に「帝記」などが存在した証明はいっさい不可能で、それはただ書かれているだけ。そもそも700年代にばたばたと作られた史書たちに、すべてを托くそうとしてもどだい無理な話である。まして差別問題に踏み込まないようでは学問、科学の名が笑うだろう。


10 秦下氏・粉飾された出自伝説・弓月王と融通王



『新撰姓氏録』左京諸蕃上 太秦公宿禰条
「(太秦公は)秦始皇帝の三世孫、孝武王自り出づ。男、功満王、帯仲津彦天皇、諡は仲哀 の八年に来朝く(まうく)。男、融通王、一に弓月王と云ふ 、誉田天皇 諡は応神 の十四年に、廿七県(にじゅうしち・あがた)の百姓(ひゃくせい・おおみたから=民人)を来け率ゐて帰化り、金銀玉帛(はく・びゃく=秀麗な布)等の物を献りき。大鷦鷯(おおさざき)天皇 諡は仁徳 の御世に、百廿七県の秦氏を以て、諸郡に分ち置きて、即ち蚕を養ひ、絹を織りて貢ら使めたまひき(たてまつらしめたまいき)。」

同書山城国諸蕃筆頭秦忌寸条
「太秦公宿禰と同じき祖。秦始皇帝の後なり。(以下ほぼ上と同文につき中略)(応神)天皇嘉(め)でたまひて、大和の朝津間(あさづま・朝妻)の掖上(わきかみ)の地を賜ひて居らしめたまひき。」

佐伯有清『新撰姓氏録の研究』および田中卓著作集「新撰姓氏録の研究」から加藤謙吉が『秦氏とその民』に掲載したものを抜粋して掲載(敬称略)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

記紀や姓氏録の氏族出自記事は、氏族が記紀編纂当時に、天武天皇の命で、自ら啓上した出自文から編集され書き記されており、それは実際の来朝時期からすでに二百年以上の歳月を経て書かれていることを忘れてはならない。信じるに値しない仮冒と考えるのが一般的である。
弓月王(君)も融通王も、功満王も存在した可能性はないと言える。

ただひとつ信じられるのは引用文下の秦忌寸たちが「大和の朝妻の掖上に」居住したという部分である。
これは現在の奈良県御所市朝妻一帯を指している。
来朝して最初の大和での居住地が御所市だったわけであるが、朝妻掖上と言えば、近くに神武天皇東征で国見をした朝津間ほほまの丘があることでも知られている。

弓月君を一般に「ゆづきの・きみ」と読んでいるが、大酒神社社伝によればこれは「ゆんずの・きみ」と読まれている。「ゆづき」が「ゆんづ」になるのは古い口語変化であろうが、「ゆづき」から「ゆうづう」への変化があったとも考えられ融通王は弓月王から創作された人物だと考えてよいだろう。

京言葉に限らず関西では一文字が伸ばされる傾向が強い。「木」は「きぃ」、「歯」は「はぁ」という具合である。東京人が「に」を「にん」(九九の「ににんがし」など)という具合に、単音が重なったときに「ん」を入れて音調を整える(「逆に言うと「ににがし」と言いにくい)のと同じことである。
同様に「ユズ」は京言葉では「ゆう」である。つまりユズとは「柚」プラス「酢」であったことになるだろう。「柚の酢」で「柚子」である。その「ゆ」を「ゆぅ」と伸ばすのが京言葉であり、ご存知、京銘菓「柚子餅」の読みは「ゆう・もち」であるわけだから、柚の音は京都では「ゆう」である。
ということは「ゆみづき」が「ゆんづき」「ゆうづき」となり、関西弁のもうひとつの特徴である、後ろに「おう」が来たとき「き」が「おう」のほうに密着して「ゆんづっきょう」「ゆうづっきょう」となる。これが「っきょう」が省略化されて「ゆんづ」「ゆうづ」と変化、さらに元の名前が意味がなくなって行き「づ」にまで伸ばしがついて最後には「ゆうづう」となって、なぜか融通王の登場となった。
融通するとは、大蔵秦氏にとっては金融用語だったから、こんな名前の王が着想されたのか?
それにしても突然この王からは、漢音という外来の読み方になっているのは、いかにも中国の王国を氏族名の表記にあてた秦氏らしい。

秦氏が「はだ」「はた」の文字に「秦」をあてるのは、ライバル・百済から来た漢氏(あや・うじ)たちが中国の漢を使ったのに対抗したものであろう。秦氏が大蔵官吏だったのに対して、漢氏は内蔵官吏であった。そもそも秦氏を、蘇我氏の専横から監視する目的で大蔵は作られている。蘇我氏はそうした意味で天皇家のある派閥から見ると「王家の中のもうひとつの王家の後見人」的、うとまししい存在であった。王家の中に派閥があったことは継体大王時代から充分に想像でき、のちに大きな争い、南北朝の時代が来ることからも想像に難くない。聖徳太子もまた、二つの王家の相克に悩まされているし、壬申の乱からも天智嫡子と天武の相克があったわけである。
朝廷の中でも巨大な渡来民だった百済系と、それに次ぐ多さだった新羅系の間の葛藤は、当然あったに違いないのである。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C2%E7%C2%A2&sk=0

功満王というのは別名が物満王である(田中卓)。
これは読んで字のごとく物をたくさん持っている・・・裕福さを表した名前であろう。
山城国諸蕃では「智」の文字に差し替えて物質・金を感じさせないよう気を使っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

廿七県の秦というのは、おそらく百廿県の秦部、秦人たちを治める分隊長の数なのではないか?
管理者が「秦氏」という氏族なのであり、その下にいた120部の秦人、秦人部、秦部たちのすべてが「秦氏」という「うじかばね制度」の中に入れるのは筆者は合点がいかないのである。
また同じ秦氏の中にも、平安遷都に尽力した秦下(はたしも)氏があり、本家と分家にかなりの格式の差もあったことだろう。
秦下氏は平安京以降、山背秦氏の中核を担うようになり、14階級とび昇進した。平安京造営に力を尽くした秦下嶋麻呂(はたしも・しままろ)は松尾の秦下氏の出身で(中村修也)、外孫には藤原家との政略婚姻で誕生した藤原葛野麻呂がある。こうした流れから見て、平安京遷都以降、秦氏の中心は宰相一家・藤原家とえにしを結んだ秦下家が牛耳り、これが平安時代の大蔵官吏を生む一族になりえたと考える。彼らこそが『新撰姓氏録』や『秦氏本系帳』『広隆寺資財交替実録帳』などにかなりの影響力を持ったことは間違いないのである。したがって葛野秦氏の伝承自体がどうやらかなりの造作があったとしてもおかしくないのだと考えるバックボーンになる。

そもそも「下」がつく秦氏というのがまず変なのである。
本家葛野秦氏から見て下・・・ということになるのだから、彼らが平安京造営の恩恵で造営した松尾大社が酒の公の直系子孫であったかどうかも、実は怪しくなってくるではないか。
しかも秦酒公(秦公酒)が始めて酒を造ったという伝説もきわめて怪しい。身分が低かった秦下の一族が造作、仮冒したと見るのが正しかろう。『新撰姓氏録』以降の出自記録は怪しい。そしてその怪しさこそがのちに世阿弥たちのような下層民出身の宗教者や芸能者たちのさらなる怪奇な秦氏伝説を生み出す下地となったことは想像に難くない。

つまり秦氏の記録や伝承の90パーセント近くは信じるに値しない眉唾であることがはっきりと見えてくるのである。



11 秦氏はキルギスから? 佐伯好郎の秦氏キルギス論


佐伯好郎博士という人は歴史学者でも考古学者でもない、英語の研究者である。それゆえに歴史学の王道からははずされてしまう運命にある。
そして自身、海外留学の経験が豊富で、内村鑑三に師事したキリスト者である。
その部外者である佐伯の出自は広島の佐伯氏である。
彼がネストリウス派キリスト教、いわゆる景教と秦氏の信仰の類似に迫るのは、上記のような理由からであろうが、しかし、それは晩年の話であった。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/jud.html
http://tom.edisc.jp/hiroshima/saeki_yoshiro.htm


弓月君が今のキルギスから来たのだという佐伯の『地理歴史 百号』に明治41年に掲載した「太秦(禹豆麻佐)を論ず」は、その独自の日本人起源論(日ユ同祖論)を裏付ける素材として書かれている。したがってこれは佐伯には申し訳ない話になるが、老いて先走った論理として、今では誰も相手にする学者はいなくなっている。

弓月国というのは、その昔キリスト教国であった「らしい」。
そこに古くからネストリウス派キリスト教が入っており、それは失われたイスラエルの枝族が入り、中国経由で日本に来た。それが秦氏であるというのだ。
そして木嶋神社(蚕ノ社)の三柱鳥居や元糾池(もとただすのいけ)や、信仰形態の大元なのだとし、そこから持論であった日ユ同祖論へ持ち込んだのである。

以降、イスラ井などのさまざまな「遺物」が彼の支持者たちの手によってクローズアップされたが、これも造作の可能性は否めない。

というのは、明治時代には、そうした熱烈な学者への協力が存在していた。つまり派閥争いの一端であろうか。

弓月とは三日月のことであるが、秦氏の改姓者の中には望月という姓がある。どうやら月をトーテムにしているらしく、松尾神社の隣には聖徳太子を祀る月読神社があるし、意味としては、陰ながら朝廷を支えた自分たちを、記紀の目立たない皇子神である月読命(つくよみのみこと)に見立てたようなのである。
ここから聖徳太子もまた影の皇子として、自分たちの祖人として厩戸が創作されたのではなかろうか?

聖徳太子・厩戸皇子は蘇我氏の子供である。
そこからのちに惨殺され、るざんされてゆく蘇我氏の祟りを収める為に太子の聖人化が非常に必要だったと見るのである。それと天智の対外的政治上の必要性が記紀成立前に合致したのであろう。

キルギスから秦氏が来たとは思われないが、日本人起源をキルギスに求める方向性は悪くないだろう。
ただ月氏国のほうがふさわしい。つまりバイカル湖経由であると言われている日本人の遺伝子に合致するからである。渡来の多くがが半島の新モンゴロイド(北方系アジア人)だったことと矛盾しない。
しかし、景教の知識は平安時代までに日本に届いており、あとからいくらでも操作可能である。
まして、それならば最初から秦始皇帝出自を偽る必要もなく、ちゃんとそう書けばよかったのである。
もちろん、日本で景教など誰も知るものがいないから、秦を採ったとも言えるが。
ただし蚕ノ社の遺物たちがいつ作られたかもわからないこともあり、後世、いくらでも造営は可能であることも否定しようがない。

結局、秦氏が広隆寺や野寺を建て、真言仏教に帰依したことと、景教徒であったことは矛盾してしまうだろう。弓月国の知識や景教知識はいくらでも手に入るし、景教徒だったなら、もっともっと多くの遺物が出てこなければならない。推理小説のひとつとして、今後もまず弓月君の出自はあきらかになるまいが、楽しい問題として頭をひねるには実に愉快な永遠の宿題である。
それで口に糊する方々の存在まで無視してしまうのはもったいないから、秦氏出身地問題はこのまま放置することとしたい。

まあ、秦下氏や民間のうばそくたちの仕業だろうが・・・。


博士だからって、正しいことを書くわけではないと。そう思っていればよかろう。
時代が時代だったから。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F




12 秦氏の全国分布と改姓後の姓名 



画像は川上しのぶ氏「古代であそぼ」サイトから 秦氏の分布図

秦氏・秦人、秦人部、秦部の分布

畿内
 山背国 葛野郡、愛宕(おたぎ)郡、紀伊郡、宇治郡、久世郡、相楽(さからか)郡《備考・乙訓郡》
 大和国 忍海(おしみ)郡、城上(しきのかみ・磯城)郡
 河内国 茨田(まんだ)郡、高安郡、丹比(たじひ)郡 《備考・大県郡》
 摂津国 西成(にしなり)郡、豊嶋(てしま)郡、嶋上(しまのかみ)郡、川辺(かわのべ)郡
 和泉国

東海道
 伊勢国 朝明(あさけ)郡、飯野郡
 遠江国 敷智(ふち)郡、蓁原(はいはら・「はい」は「シン」と読むのが普通ゆえ榛原の改字だろう)郡
 伊豆国 田方(たかた)郡(筆者田方郡は過去何度も訪問した)
 相模国 高座(たかくら)郡
 武蔵国 《備考・幡羅(はら)郡》
 《備考・参河国渥美郡》

東山道
 近江国 愛智(えち)郡、神前(かんざき)郡、犬上郡、蒲生郡、浅井郡、坂田郡、高嶋郡
 美濃国 当嗜(たき)郡、賀茂郡、本巣郡、方肩(かたがた)郡、各務(かかみ)郡、山県(やまがた)郡、厚見郡、池田郡(旧味蜂間あちま郡春部かすかべ里から分かれ)、不破郡
 上野国 多胡(たご、たこ)郡
 下野国

北陸道
 若狭国 遠敷(おにゅう)郡、三方郡
 越前国 足羽郡、坂井郡、大野郡、丹生郡、敦賀郡
 加賀国 加賀郡
 越中国 射水(いみず)郡、砺波(となみ)郡

山陰道
 丹波国 船井郡、何鹿(いかるが)郡、桑田郡、氷上郡
 但馬国 出石(いずし)郡

山陽道
 播磨国 賀茂郡、飾磨(しかま)郡、揖保郡、赤穂郡
 美作国 英多(あいた)郡、久米郡
 備前国 和気郡、邑久(おうく)郡、御野(みの)郡、上道(かみつみち)郡
 備中国 都宇(つう)郡 《備考・下道郡》
 周防国 玖珂(くが)郡

南海道
 紀伊国 名草郡、安諦(あて)郡
 阿波国 板野郡、那賀(なか)郡
 讃岐国 大内(おおち)郡、三木郡、山田郡、香河(かがわ)郡、多度郡、鵜足(うたり)郡
 伊予国 越智(おち)郡、温泉(ゆ)郡(松山市道後温泉)
 土佐国 吾川(あがわ)郡 《備考・長岡郡》

西海道
 筑前国 志麻(しま)郡 《備考・穂波郡》
 豊前国 仲津郡(行橋市周辺)、上毛(かみつけ)郡(豊前市から大分県中津市の一部)
 《備考・筑後国御井(みい)郡》

《備考・》は加藤謙吉が指摘する秦氏関係者の存在可能性がある地域。
以上加藤謙吉『秦氏とその民』から転写


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

秦氏の改姓と「勝」族
改姓後の姓(うしろに勝がつく)
 勝(かつ・まさ)
 茨田(まんだ・まった)
 奈癸(なき)
 上
 不破
 木
 栗原
 駒田
 各牟(かがむ・かがみ)
 宮
 均田(そいだ)
 角(つの)
 柴原
 和久(わく)
 呉(くれ)
 生嶋(いくしま)
 刑部(おさかべ)
 阿伎(あき・あぎ 安芸、安岐とも)
 常(つね)
 辛(韓)嶋(からしま)
 塔(とう)
 調(つき)
 強(こわ)
 楢(なら)
 榎本(えのもと)
 上屋(かみや)
 川(河)辺
 丁(てい)
 狭渡(さわたり)
 古溝
 阿射弥(あざみ)
 墨田(すみだ・くろだ)
 田部(たべ)
 高屋(たかや)
 大屋(おおや)
 門(かど)
 ?田(しもとだ)
 早良(さわら)
 酒井
 蕨野(わらびの)
 秦
 麻柄(まえ・勝首)
 勝首
 大宅(おおやけ)
 宇佐恵(うさえ)
勝首の勝はカバネではなくウジの一部であるという説が強い。
木簡学会編『木簡研究』19号 1999
*なお、これはあくまでも秦氏の勝姓のみの表示にすぎない。勝は「まさ」で、地域によって「かつ」と読ませるが、漢氏が「村主=スグリ」という地域首長名を用いたのに対抗して生まれたと考えられている。また、以上の姓は地名を名乗った場合もあり、現在これらの姓名を名乗っている方々がすべて秦氏出身だとは言えない。
さらに加藤は、漢氏の村主がそうであったように、秦勝は秦氏が率いてきた多くの県が地域地域で名乗っており、それは秦氏本体でない秦人たちである可能性が高い。つまりそれらの県の族長が勝であろうか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このほかにも秦氏子孫を名乗った枝族たちの氏名もある。
それは、赤染(香春神社祭祀者)、秦下(松尾の秦氏)、依知(えち)、東伎(とうぎ、雅楽奏者)、井手、田村(チェジュ島由来か?)、大倉・大蔵(役職名)、黒田(中世黒田氏)、長曾我部(新参のチョウソカベ)、島津、服部、羽鳥、少宅(おやけ)、大沼(おおぬ)、大野、池辺(いけのべ)、波多、波多野、幡野、秦野、松尾、画師(えし、職名)、裂田、飯田、狩野(かのう=画師、かの=鉱山師)、加納、叶(酒造)、松永、長光などにその可能性がある。これには秦氏および秦人出身者が混在する。

しかし、これらも職業や出自由来、入植地地名などの理由が考えられ、すべての方が秦氏えにしがあったとは考えにくい。秦氏以外の連れてこられた人々も秦姓を名乗った場合もあれば、そうでない場合もあった。
進んで名乗った氏族は、概して、山背秦氏を祖人にしたがったのであるから、はぶりがよかったか、出世欲があった可能性もある。まして婚姻で入籍した場合はもっと多かっただろう。

氏族の改姓は奈良時代の改名、地名改正の指示が朝廷から何度か出ているのであるが、それ以外に地方においては勝手な拝命があったようである。


 なお、このブログでの秦氏に関する考察のすべてをご覧になるならば、このページ上段にあるページ検索枠内に「秦氏」と入れてタイトルか内容の選択肢いずれかを選び検索すれば、ヒットしたすべてのページが表示されます。




13 葛野大堰と大辟(おおさけ)



葛野秦氏のシンボル的一大事業と言えば大堰川(保津川)に作られたという葛野大堰(かどのおおい・おおぜき)だろう。
この土木作業は、氾濫する保津川流域を選んだ秦氏の運命を決定する大事業だった。
秦氏が山背に入って、なぜ、稲作に絶好の東側湿地帯を選ばす、西側の荒地である嵯峨野丘陵麓を選んだのか、加藤謙吉たちは不思議がっている。
考古学的に田園の派生を調べていれば、すぐに了解したはずだ。
初期田園は棚田が多い。下流域が氾濫が多く、湿地帯は自然災害に弱かった。山麓の棚田ならば、清水さえ湧いていれば、たやすく水が操作できる。
当初、秦氏も、丘陵の上部を開発したに違いない。やがて平野にまで下りて来ると、保津川という暴れ川がやっかいだったのであろう。
この堰が失敗すれば、氏族の拡大発展は望めない。

その葛野大堰の場所が不明である。
果たしてどこにあったのか。

秦氏の事業は土木、鉱山開発(主に銅と水銀と朱)、そして塩田事業であると言われている。
いずれも共通して必要な技術がある。
それは中国派生の版築土木工法だ。
水利の土手、鉱山のネコ流しの溝、塩田の流し工法の溝はみな、この版築工法で作られる。これはのちに淀川における茨田堤(まんだつつみ・大阪府寝屋川市一帯)においても応用された。もちろん版築は古墳造営にも活躍する。
やりかたは、土を少しずつ盛り、木棒でトントンとついていく、人海作戦である。
おそらく人夫となった秦人たちは、裸足で、危険な土木作業にかり出されただろう。
鉱山へ行くたびに思うことだが、落盤事故も多く、足元の過酷な山で、きっとおおけがをしただろう。山師は片足、片目で象徴されるのは、そのせいである。

秦氏の土地開発を「おおさけ」と呼ぶ。
「裂ける」とは土地を切り開くことである。
阿蘇神社の神が阿蘇山を「裂いた」という言い方をする。

広隆寺の脇にある大酒神社は、もと大辟神社と表記していた。
「辟」は「辟易する」の「へき」で、あまり良い文字ではない。それをあえて使うのはおそらくであるが、秦氏が中国・秦を名乗ったためであろう。大秦(ローマ)のダビデを知っていたのだろう。
本来なら「裂ける」を使うはずである。
この点だけは、珍説を取っておく。キリスト教の知識があるなら旧約聖書は読んでいると見たい。

旧約聖書は奈良時代前でも実は簡単に手に入る。
飛鳥時代にシルクロード経由の交易があるから、秦と深く交易した過去のあるローマ方面から、聖書は必ず入ってくる。商人や旅芸人は必携するはずである。
だから秦氏の西欧知識、インド知識は間違いなく交易から派生するはずである。
秦氏が海を渡ってやってくる限り、必ず海の民のナビゲーターがいたはずだ。海の民は世界最初の海外貿易者である。

およそ大航海時代とは違い、古代の航海は小船である。
従って大きな交易はないかわりに、一度命を懸けて出かけたら、どんな知識も物資も「おたから」である。持ち帰った知識や物資は、大航海時代よりも必需品に厳選される。つまり古代のほうが交易の内容が濃いのである。しかもそれは侵略や略奪を伴わない。版図の拡大など海人族には無関係である。なぜなら彼らはほとんど陸(おか)を必要としていない。船の上で暮らすからである。船を家としたことが記録にある。それは江戸時代になってもあまり変わっていない。ただ、朝廷から強制されて仕方なく陸に定住する者があっただけである。その理由はもちろん朝廷が貢物、租庸調の重要な産物として海産物を欲したからである。そしてそれらの海産物のほとんどは食ではなく、神へのニエであった。

昨日四月四日、阿蘇神社において風宮(かざみや)の祭りがあったが、この場合も多くのニエは海産物である。ちなみに風宮祭りとは田植えの前に病虫害と大風を封じる(虫送り、および風切り神事)神事である。阿蘇宮司阿蘇氏が風祝である証明である。

このように秦氏は各地で秦人、秦部たちを用いて殖産興業による氏族繁栄を成し遂げていく。その意味で、最大の渡来勢力だった彼らがいかに裕福だったかがおわかりいただけるだろう。おそらく大王家など足元にも及ばぬ大財閥だった。

秦氏の塩田開発の中心地は福井県の遠敷郡と岡山県東部の揖保郡、そして赤穂郡などである。いずれも屯倉があったことで知られている。屯倉は租税の一時預かり所で、税関である。だからやがて秦氏が大蔵になる理由もここにある。

なお、鉱物の場合、精錬前の状態にするのは鉱床のすぐそばで行われる。これは知人の木浦鉱山の山師に聞いた話であるから間違いない。それを人力で麓の集散所まで降ろし、そこでまたインゴット化する。だから鉄サイ、たたらなどは山よりも平地に多く出る。山のたたらは簡易たたらである。

秦氏が関係した木浦鉱山は、東大寺大仏の錫を産出したと言われている。その時代、錫鉱山は木浦しか記録がないからだ。銅は豊前香春と長門、金メッキの金は出羽、そしてアマルガム工法に用いた水銀は伊勢から届けられた。

福井の遠敷の塩には、実はもともと水銀と朱の目的があって秦氏や大生部たちが入っていた。水銀をシオということがある。

ところで丹生氏という水銀、朱を採集していた人々が各地にいる。丹生氏には地域によって氏族の別があって、息長丹生氏や伊勢丹生氏があった。今、丹生氏と言えばかつらぎの天野丹生氏と考え勝ちであるが、丹生氏は朱採集者のみなが名乗るのである。
丹生氏が次第に消えてゆくのは朝廷が水銀、朱を必要としなくなったからであるが、それは仏像生産過剰による鉱毒に苦しむようになってからである。それこそは多くの遷都の最大の理由だったのである。

水銀のアマルガム工法を知っていたのも、市毛勲や加藤謙吉は秦氏であろうと言う。そしてその丹生関連秦氏の中心にいたのが深草秦氏だった。
記録では深草秦氏から出る伊予の秦 田+比登浄足(はたひと・きよたり)ら11人が伊予の朱沙採掘のためにいたことが『続日本紀』天平神護二年三月条に記録がある。深草秦氏の祖である秦大津父(はたのおおつち)は欽明天皇紀に「伊勢に向りて商価して来還す」とあり、伊勢の水銀であきないしていた記録がある。深草秦氏は鴨川の水利交通を大々的に牛耳っている。このとき、鴨川から淀川を経ていく航路には、神功皇后を祀る神社が沿線沿いに建っており、皇后の伝説は、深草秦氏に協力していた水銀採集士族・息長丹生氏の伝説から生まれたのではないかと考える説があるのである。

なお、水銀と歴史研究においては松田寿男がパイオニアであるが、彼の丹生神社周辺の水銀濃度調査は信憑性が薄く、市毛勲をおすすめしたい。

塩の話に戻るが、児島屯倉を要する吉備・牛窓の交易も深草秦氏が関係しており、秦氏の居住地は吉備の東側から播磨の西側に集中する。吉備王一族が西側に住んでいたことを考えると、あまりに住み分けているわけだ。そしてこの地域にはアメノヒポコ伝承と古墳石棺に使われた竜山石採掘場が集中している。渡来文化としては揖保の素麺が著名でもある。このように深草秦氏と播磨、吉備東部は非常に関連が深い。ということは播磨に河勝伝説を伝えたのは葛野秦氏ではなく、深草秦氏だったことになるだろう。

ここからも葛野秦氏の実態はまったくかすんでゆくのである。
そして残るのは葛野のそばにいた土師氏という古墳造営、土器製作者と葛野大堰、そして河勝伝承と古墳群に絞られてくる。
ところが土器といえば深草。深草は平安時代には土器販売者の俗称となっている。深草秦氏がいつ葛野秦氏を追い抜いてしまうのか、伏見稲荷の造営がそこには横たわっている。
殖産氏族秦氏の中心者はこうして葛野から秦下や深草秦氏へと移動していった。
しかしその心の中心には河勝がいつもいた。
河勝は実体のない秦氏の象徴になった。




14 結語その1 天皇と賤民・律令制度の裏側



いささか引用が長くなるが、神・天皇・賤民(せんみん)の、祭政一致世界における位置づけという必要欠くべからざる最大の要素を説明するには以下の井上満郎『渡来人 日本古代と朝鮮』の一文を記載しておきたい。

「(前略)「聖」という概念は基本的には中国のものであるが、”神”とならんで、天皇の権力、つまりは支配者の権限を保証するものとなった。
最高権限のよってきたるところが”神”であり”聖”であるということ、つまりは人間を超越したものであるところに求められるとすれば、当然その論理的な帰結として、人間界にいれられない低位な存在をつくりださなければならなかった。それが五賤と呼ばれる賤民である。(中略)天皇を神聖なものとした以上、それに対応する(反対概念としての)卑賤な人々が必要となってきた。単純に考えても、神聖でないものがあってはじめて、神聖なものが意味を持つ。制度のうえで厳密に規定され、世襲されて確実に再生産され永遠に消滅することのない賤民があってはじめて”神”として”君臨”する天皇も神聖な存在として完成する。ただ(それまで存在してきた奴婢のように)身分的に最低というだけではだめなのであり、天皇がそうであったように質的に異なるものである必要があった。律令体制という新しい社会体制のなかにふつう良人とか良民とか呼ばれる階層概念が創出され、その上に超越したのが天皇であったが、その下に排除されたのが賤民だったのだ。」

五色の賤とは陵戸・官戸・家人(けにん)・公奴婢(くぬひ)・私奴婢の五種である。(養老律令・702年制定)

奴れいや差別は全世界的に存在するが、日本の場合、彼らは「牛馬そのもの」であるとみなされ、そこが「牛馬に準ずる者」とされていた世界の差別とはまったく次元を異にするところであると井上は言う。これを「生産蕃息(せいさんばんそく)」と言う。

「生産蕃息とは、謂うこころは、婢の子を生み、馬の駒を生むの類なり。」 『養老律』「名例律」

つまり奴婢が生んだ子供はやはりその管理者の奴婢であり、それは器物と同等のあつかいであったことになる。
増産された子=「モノ」=蕃息は所有者の生産物とされたのである。弥生時代には単に身分の低いだけだった奴婢が、律令国家においては生産可能な器物・・・つまり生産物という不動産、動産的扱いに変化した。これすなわち世襲である。

こうした世襲が今も続く世界とはまず天皇家、梨園などの芸能一家、小規模経営の家内性会社、そしてついでながら半島の一部の国家に残存するのみである。言い換えれば最上位の一家と、かつては最下層だった芸能、手工業職人世界にのみ残されていることとなる。半島国家のそれは独裁制の永続のためであろうが、社会主義、共産主義国家で、そのような類例はほかに見当たらない。

天皇家と賤民だけが姓を持たない。それは天皇(聖なる現人神)とは姓を良民に与える立場であり、良民はそれをいただく側であるという絶対的社会構造であり、その構造を存続し、きわだたせる役割として賤民は創出されたのだった。
過去の記事によれば、ほとんどの賤民のうち、家人は人間であるが、奴婢は動物であった。そして奴婢のほとんどがよく「逃亡」したことが記録されている。逃亡した彼らが潜伏し、あるいは放浪するようになる。いつしかそれらが犬神人などになって集合し、秦氏の下人たちと混合し、集団をなし、各地の秦首(おびと)たちの傘下におさまるようなことが起きる。寺や神社にたむろし。徒党をなし、中から芸能が生まれ、人気を得て、今度は芸能の中にもともと内在した民間信仰が派生。たけのこのように拡散して原始シャーマニズムと習合する。それらが組織化すると、やがては国家にとってあやうい存在になるゆえに、河勝は早々に目を摘むこととなる。

また、集合しても、なお放浪を選ぶ集団が出現し、それらは山に入り上下の放浪する集団と、流浪し横に放浪する集団になった。
これを「宿」という。

また職能民という職人集団も形成される。技術者であるが、その身分は低く、これはやがて江戸の町人文化を形成して、地位を挽回することとなる。なぜならば技術者はあくまで武家の儒教的身分制度によって下層に置かれたに過ぎなかったからで、日本の世界に冠たる技術、精緻な芸術を形作るための重要な人々となった。

さらに芸能の民も江戸期には成功をおさめればスターとなり、能、歌舞伎のように圧倒的地位を確保する。画師も室町時代からは武家に優遇される者が現れる。彼らのもともとの職能は水銀採集などの鉱物採集で、そこから顔料に直結するのであった。

江戸期に「エタ」とされた人々の派生は鷹匠だったと言われている。
これらは品部(しなべ)としての主鷹司(しゅようし)鷹戸が餌取り(えとり)と呼ばれていたためで、品部・雑戸(ざっこ)という古代の技術職業民はもともと卑賤視されていたのである。その中に百済手部や百済戸、狛戸といった異民族が含まれていることがあった。この中に鳥飼や犬飼といった動物を取り扱う部の民も含まれていった。

そして彼らの多くがなぜか秦河勝を祖人と考え始め、さらには天皇家や貴人から流出したという「貴種流出譚」は生まれてゆく。

そこにあったのは、さきほど引用した井上が言う、観念としての聖なる者と反対の賤なる存在としての賤民たちの独自の「かつては素性正しき身分」だったという反骨が表出するからだろう。その部分はやがていくさの敗残者との合流からも、心理的一致を見ることとなったのだろう。つまり古代賤民は比較対照する必要から生み出された被差別民なのであり、それは言い換えれば天皇のため、貴種のために犠牲になったに過ぎず、むしろそれこそが天皇に匹敵する高貴な選択をしたのだという、生きてゆくうえでの心の柱になりえたのではなかろうか?




15 結語その2 天輪聖王(てんりんじょうおう)



画像の出展サイト
http://white.ap.teacup.com/applet/miitu1223/229/trackback
http://www.usi-design.co.jp/kotsubo/tayori10.html
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/hatasiga.html


このように記紀、神儀令に発する律令制というものは、ある種の犠牲と忍従のうえでしか存続しえない政治体制であったと言わねばならなくなりそうである。そうした理不尽な、しかし厳しい身分制度が朝廷を守っていた、存続させていた証拠が平安京1000年の歴史そのものであると言わねばなるまい。

人間はあまりの自由や多すぎる選択の前では組織を存続できない、あるいはどこを向いていいかわからなくなる猿類であるらしい。アリのように不動の信念、つまり本能というたったひとつの信仰しか持たない存在ではないということだろう。だから人間はそもそも「ぶれる」のである。ぶれない信念が間違った方向を向かなくてもいいように、心が揺れ動くようにできているのであろう。それを「反省」と言い換えることもできるだろう。はっきり申し上げるが、揺れ動く不安があってこその人間であるのだから、思い悩んで自ら死を選んだりする必要はないのだ。死は君の周りにいるもののすべてを苦しめる。君は死ねばその苦しみに無責任であることになりかねない。それは君が死ぬ原因となった人々にも及ぶ。結局、勝手な死はすべての人を地獄に導くだけである。しかも、悲しいことに、なにひとつ改善はなされない。だから生きて、待つことが唯一の選択肢だ。死んではならない。

差別があったことに干渉してはならない。それはあるべくしてあった。なければ現代はない。干渉は怒りを生ませるだけである。
見つめればそれでいい。そう思う。

律令制のこうした条理に反する部分は、聖徳太子の聖人化にもあてはまるのだろう。
国家が作り出した聖徳太子像は、民間の中でさらに増幅されていった。天智天皇もまさか民間信仰にまで太子信仰が増幅するとは思わなかったかも知れない。秦部たちと被差別民が融合し、こうしたイメージの創作があった。そこにも聖なる太子観念の対極には賤民があった。それはニギハヤヒやスサノオやオオクニヌシにも言える。
聖なる神は荒ぶる民衆、賤民たちにとって味方であった。
それこそが日本人の信仰の根幹にどっかりとある。

それを別の神の名で「転輪聖王」と言う。
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/tennrinnou.htm
http://www2.big.or.jp/~yba/teach/7kousou021.html

日光・・・。
徳川家康の遺骨を祭る輪王寺に伝わる摩多羅神がある。
家康は死して転輪聖王となった。それは秦氏末裔を自認した天海僧正の仕業であろうか?もしちまたが喧伝するように、彼が岐阜土岐私出身の明智光秀であるのなら、それは秦氏の臣下一族だったに違いない。しかし、すべては不明である。
少なくとも、輪王寺の名前は転輪聖王を意識してつけられており、それはまた秦氏を念頭におく新羅明神の顕現でもあっただろう。宿神は大寺院の本尊の真後ろに必ず置かれる。そこから「ウシロドの神」と呼ばれる。

後戸とはアマテラスが隠れた天の岩屋戸でもある。そして蘇民将来がやってくる闇のかなたでもある。それを異界と呼ぶ。
荒ぶる民である被差別民・宿の民であった秦氏の家人たちと賤民こそが、後世、宿神・摩多羅神を創作して行った。それは最下層民を救済する広隆寺の弥勒菩薩でもあるだろう。五十七億年の未来に私たち愚民を救いに降臨する菩薩。その思い悩む姿は、そのまま聖徳太子の救世観音なのではなかろうか?これは民衆ののぞみが生んだセイテンタイセイだったのかも知れない。
聖なる玄浄三蔵を守る、怒りの猿・孫悟空。『西遊記』にもちゃんと聖と穢の反対概念が助け合う物語が描かれている。
私たち良民はその二つの聖と穢の二律背反が形成したこの世界の間にいて、ただ揺れ動くしか力がない存在なのかも知れない。

秦氏はどこから来たのだろうか?
どうやって新羅にたどり着き、なぜ日本へ賤民たちを導いたのだろう。
それは新天地を求めて、自由な世界を求めた新教徒さながら、パイオニアであったのかも知れない。
その姿はもうひとつのシルクロードである、崑崙の北に長く延びたステップロードをゆく、白い人だったのかも知れない。ホータンからトンコウを経て旧約聖書を胸に、新天地を求めてさ迷いつづける遊牧の民だったのかも知れない。
星かげと弓月を頼りにステップを何世代もかけてやってきた人々・・・。
もちろんエジプトを出てからすでに何千年の歳月が過ぎている。シュメールを出てからは10万年、アフリカを出てから30万年が過ぎている。三万年前に列島にやってきた海の民とともに、渡来もまたその共感を持ってやってきて融合し、古来の倭人とも共生し、今、私たちは現代を生きている。きりんと滅びるその日まで。弥勒の降臨を待ち続けている。




後記 ウラハタ幻視考




最初に申しあげておくのは、以下はあくまでKawakatuの私的な考察に過ぎないということです。実際にはそうでないのかも知れません。あしからず。
それから、以下を信じる必要もまったくありません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

秦氏には管理者・秦氏(はた・うじ)と、彼らが率いた秦人(はたひと、オビト=首の氏を持った地方管理者)、その下に秦人部(はたひとの・べ)、さらに最下位に秦部(はたの・べ)という階級がある。この階級組織は血縁ではなく明確なカースト的順位のもとにピラミッド型の組織化がなされていたと思われる。
朝廷に直結していた葛野秦氏の下に松尾秦下氏(はたのしも・氏)や深草秦氏があったと考えている。そこから各地のオビトへと作業支持が出て、実際に作業に当たるのは秦部である。要するに会社組織の親会社・子会社のような関係だが、そこには血縁に近い深い結びつきと信仰にまで関わる一族性がある。松下電器がこれに近いと言えば近いだろうか。

これまでの民族学伝承ひろいあげ辞典では秦氏を中心にその表側部分だけを見てきた。
大蔵官僚である秦氏が、政治と信仰によって秦人以下から租税を徴収し、そこでの利益は再び下位へと還元されていく。そういう祭政一致とファミリーを基盤にした彼ら独自の「律令国家」が秦ファミリーだった。

完璧な組織ゆえに鴨や葛城や多や佐伯たちもその傘下にやがて入っていったと思われるし、そう考えないとうまく説明ができなくなる。
そして国家が国を平定してすけば、また新しく出雲や熊襲や蝦夷や隼人が参加して管理下におかれてゆく。
だから秦部、秦人部は
1 秦氏が渡来した時から一緒にやってきた各国からの移住技術者集団
2 国家が平定した先住民の縄文技術集団
の二種類が合体していたことになるだろう。

前者1に関しての考察は佐伯有清が、後者2の考察は喜田貞吉が、すでに明治時代に独自の考察である民間信仰の視点、先住と差別・渡来と差別の視点から、かなり真相に迫っている。ただ、その両者が同じ土俵にいるとは考え付かなかったようだ。

「秦氏の謎」は管理者で律令の中にあった官僚・秦氏の中にあるのではなく、その下にいた賤民の中から生まれたものである。

そのバックアップ組織として秦下氏と松尾神社、深草秦氏と稲荷大社の神官がウラで関わるのではなかろうか?もちろん葛城や鴨、多などの信仰関係者もなにか関わっているはずであろう。

彼らに共通しているのが「差別」なのである。

中央の、天皇をはじめとする表側の政治組織や祭祀組織には見えないように・・・つまりは聖なる神である天皇とその宰相たちのハレの政治からは見えない穢=ケのまつりごとを秦氏グループが引き受けていたと見るのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

深草秦氏はその出自に関わる祖人である秦大津父の伝説として、葛野秦氏来朝の垂仁天皇や応神天皇時代に準ずる古い時代となる、雄略天皇時代のエピソードで語られてきた。いずれも倭五王という、大和朝廷の”先代”王朝に帰化したと自己申告している。

ここで気がつくことは、もっと古い出自を言っているのが多氏だったことである。ヤマトにおいて秦氏の秦楽寺のある磯城郡田原本町秦庄とは隣り合う同じ田原本町多に多坐弥志理津彦神社があるように、秦氏と多氏はほとんど同族のような関係が考えられ、しかも多氏もまた神職と鉱山開発氏族であるとされている。
田原本町と同様に、秦氏が最初に留め置かれたかつらぎ郡には葛城氏と鴨氏が同居して同族化していた痕跡がある。

諸君は多神社と秦楽寺をセットにして行ったことがあると思うが、双方の土塀屋根瓦の軒丸瓦の意匠がまったく同じであることに気づいただろうか?
それはどういうことなのか?
クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します
多庄と秦庄は隣り合っている。そして同じ波多印を使っている。
秦楽寺は河勝建立と言われているがそれはうそである。
建立したのは深草秦氏の首(オビト)であったことがわかっており(井上など)、金春屋敷が建立前にあったというのももちろんうそである。金春家の時代は世阿弥のあとの室町鎌倉時代。秦首がここに集まった多くの漂泊者やくぐつや犬神人たちを手厚く保護していたこともわかっており、その中から申楽河勝由来伝説は生まれてきた。世阿弥はその賤民たちの間の伝説を花伝書に盛り込んだだけである。

多氏との共生は充分考えられる。それは最初に秦氏が居住を許された御所市朝妻に先住していた葛城、鴨たちとも同族化したことからも想像に難くない。
彼らに共通するのが鉱山開発、倭の五王時代前からの先住、出雲葛城は「やられた」
となる。秦氏も垂仁から応神時代の来朝を言うわけだが、彼らはそれよりももっと古くからそこにいた。多氏などは神武直系である。つまり九州起源になっているわけで、そんなことはあり得ないわけなのだが、そこにはなぜ『日本書紀』やらが九州を王家の出身地にしたかのヒントもあるのだ。

考えても見て欲しい。
大和朝廷は継体大王のあと欽明・推古と蘇我氏の時代が始まっており、その前は切れているのだ。つまり倭五王以前の王朝と大和朝廷には血縁がない。政略的に滅んでしまった王朝と読んでいいだろう。雄略の臣下であった大彦命・・・記紀は崇神天皇地代の四道将軍のひとりとして書き記したが、考古学的には埼玉県稲荷山古墳の鉄剣銘文に大彦子孫が出ており、時代的にきわめて怪しいことがわかるだろう。大彦が膳(かしわで)氏の祖であり、かつまた阿部氏の祖であることもわかっている。この両氏族は雄略前後の応神王朝の東の雄族なのであるから、崇神時代ではなく倭五王時代の人物であるはずであろう。

神武天皇もそうした九州の先住民であった「たかなめ」(今の高鍋)=鷹目=鷹匠一族の伝説的人物から創作された・・・のちの賤民・・・日向の先住民氏族だったのだ。であるからこそ、賤なるものに落とし込まれた彼らの鎮撫のために神武は創作されたのであろう。それが渡来の民・秦氏たちの最重要の秘めごとなのだ。

国家が自分でうそは言いたくないから、低い身分で主流派百済系でもなかった新羅人・秦にそう「させた」のである。
これは絶対に隠し続けなければならない国家の最大の「うそ」であった。

葛城も出雲の鴨も、やられていないか?
やられているだろう?
だから鎮撫せねばなるまい。蘇我氏も同じこと。
賤民も先住も鎮撫するためには、祖人伝説を史書が取り上げる。これが最高級の闇の後戸である。

ついでながら、なにゆえ呉をクレと読むのかご存知だろうか?
クレとは暮れてゆく方角という意味で、西=闇を表すのである。逆に昼はあづま、あがり、出、伊豆である。
「日イズル処の天子」とは昼間=現実世界の天子であり、「日没する処の天子」とは夜=常世の天子を現す最大級の賛辞だったのである。
馬鹿王煬帝はそんなことも知らなかった。
西がクレなら、それは夜で、常世の神のいる場所である。
出雲は本来クレなのだ。しかし大和はそこを奪い取った。やられたのは出雲の人ではないのだ。戦ったのは北部九州の王家なのだ。

だからこそ出雲大社が立てられた。それでも足りないくらい強力な国家であったために今度は宇佐に八幡神も祭った。より強い祟り神であるところの前王朝の始祖王・応神を祭り、さらに上乗せで新羅を滅ぼしたことになっている応神の母・神功皇后という強烈な女神を置いた。つまり大和朝廷はそれほど「滅ぼした九州王朝」が怖かった。たたりが。
縄文からの自然の猛威を収める崇拝は、この部分で必要だったのである。ただし弥生以降の鎮撫する神は自然の猛威だけではなく、主に実在人物の霊魂=新しき鬼へと変化していったのである。なぜならば弥生時代は「いくさの時代」だったからだ。大量の人が死んだからだ。おそらく古墳時代最後の継体大王の筑紫君を滅ぼした陰謀によってそれらの祟り神が消滅するまで。
そして継体自身もまた、あとの王家欽明以降、鬼となり、祟り神とされたに違いない。
鬼を滅ぼした者は鬼となるのが定めである。
こうして継体はピンク色の石棺におさめられた。赤い呪によって封じ込められ、五王の血族は終焉を迎えた。

南北朝・・・・江戸時代・・・を経て、明治時代に大逆事件が起きた。
幸徳秋水の反逆である。
彼は死刑宣告を受ける裁判の席でこう言ったという。
「今上天皇は南朝の天子を殺して三種の神器を奪い取った北朝天子の子孫ではないか。それをどうかしようというのがそれほど悪いことか!!」
そう叫んで開き直った。
明治時代になってもなお、こうした朝廷二分化問題は存続していた。それほど天皇家には紆余曲折があった。それはどう考えても、天皇もまた九州から来たとしておかねばならなかった律令時代のチョウテキ思想、怨霊思想の恐ろしいまでの迷信に(言い換えるとしまった民意が離れる!なんとかしなければ的な)あわてぶりが見えるではないか。

裏ハタは、国家的不都合を飲み込んで、表から後戸へ隠れたのである。
だからこそ、半跏思惟する仏に身をゆだね、闇の世界をじっと見つめるのである。すべてはうそ。
鷹の目をして。




PS鷹は地名では高いに変えられることが多い。
高尾は鷹尾、田川は鷹羽、田方郡は鷹多、高羽は鷹羽、高野は鷹野というふうに、もとはハレではなくケ地名である。それがハレ地名に変えられたのは奈良時代、地名人名の良字二文字への改正指示からである。つまりハレとは国家にとって「都合のいい」という意味なのであろう。




この項の目次に戻る