お読みになる前に・・・
  この物語はあくまで小説であります。筆者の推察が多分に含まれておりますので
  細かい部分に歴史上確定的でない出来事が若干挿入されています。これは読者に
  この合戦の本質的なところを簡明にわかりやすくするためであり、決して誹謗、 
  中傷の意図があって記述したものではありません。大筋に於いては各資料に基づ
  き、間違いはありません。史料に基づいて筆者の色づけが部分的にあることをお
  お知りおき願います。


 天文3年、速見の郡山浦。大牟礼山。ところは勢場(地元民はこれを「せば」と読む)。

 大友軍大将、弱冠19歳の美丈夫・吉弘源氏直(よしひろみなもとのうじなお・国東・吉弘の武将)は新進気鋭の年老であるつわもの寒田三河守親将の助力を得て総勢一千騎になんなんとする大友配下衆とともに敵将・陶隆房を待ち受けていた・・・。

 大内方三千騎は地元安心院郷佐田の郷士・佐田朝景を案内役として、隠密裏に大牟礼山後方より近づきつつあった。しかし、この若き大将も、またその部下たちも未だ敵の動きにまったく気づいていない。味方の友軍は眼下に立石峠を挟み対面する地蔵、立石の各山頂に潜伏し、氏直率いる本隊同様、街道を攻め上って来るであろう大内軍を今や遅しと待ちかまえているのだった。

 事の原因はそもそも、大友と大内が手を組み尼子経久を討った盟友時代からすでに始まっていた。大内義隆は父・義鑑の命果てるを契機に、かねてより欲しかった豊後の宇佐神領を簒奪し中央との外戚を利して天下に名を売り出そうと画策したのであった。山陰の雄・尼子を討って名をあげた父の権威を利用し、さらなる野望を遂げようと言うのである。同年11月に始まった妙見嶽の戦いをきっかけに両者の国盗りは肥前・肥後まで巻き込んで血みどろの抗争に発展しようとしていた。

 「勝山歴代豊城世譜」によれば、天文三年の勢場での戦いを前にして、なぜか大内方から出奔したひとりの武将のあったことを書き留めている。

 藤井三太夫という大内譜代の武士がそれである。この男、なにやらぬれぎぬを着せられ大内方より逃げ、大友の本拠地・豊後府内に、周防灘を渡り遁走してきて大友に取り入ったようである。

 「元来ふたごころなき者なりしが、何となく不忠者に聞こえ、死罪に行なわるべきのよしを三太夫に告ぐる者あり」

 「世譜」に残されたこの記述はいったい何を表すのか。ずいぶんと遠回しに書いてあるが、これはもう逃亡を装ったスパイではないのか。
 ところが大友方はまんまとこの男を案内役にしてしまう。こうして大内方の間諜作戦は大成功を収めるのである。

  第一ラウンド 大内が先取というところか。


「三太夫とやら、貴公いかなる過ちありて左京大夫(大内義隆)を裏切りしや?」
 大友20代総領・豊後守護職・義鑑(よしあき)は眼前にひれ伏す大内家からの落ち武者に相対し、うろんな視線を浴びせた。やすやすと敵の策謀に乗せられるほどこの総領の目は腐ってはいない。うますぎる話には注意が肝要である。

 「ははっ・・・私事ながら拙者、実は娘がひとりございまして、これが親に似ずなかなかの美形。はずかしながら親ばかとそしられましても親は親、溺愛いたすは仕方のないこと。長じまして領内でも評判の小町などともてはやされ、拙者も内心嬉しゅうないわけはござりませぬ。ところがこれが義隆公のお耳にまで届いたと見え、公には我が娘をウムを言わさず手込めにしてしもうたのでござる。あげく、悲嘆に暮れた娘は自害。いかに忠臣と呼ばれた拙者でも愚痴のひとつ、陰口のひとつも出ようというもの。それでも我が一族、恥を忍び、屈辱に耐えておりましたものを、かの門司の合戦にて惨敗せしのち、我ら一族に翻意あるやもとのお言葉ありしを伝え聞くに及んでは是非もなし。まして主君の寵愛を受けたにも関わらずあてつけがましく自害するような娘を育てた親のつらが見たいなどとおおせになられたとも聞き及び、これはもはや敵ながらあっぱれなる勇者とお噂のご当家へ出奔し、この恨み晴らしてくれようと思いついたのでございます。守護職様におかれては、周防の公家モドキなどとは格違いの居丈夫。益荒男の中の益荒男、もののふの鑑、武士の手本とかねてより感服つかまつっておりましたゆえ、もういちもにもなく転がり込んで参った次第。このうえはこのやつがれ、どうか哀れと思し召し、この恨み晴らさせていただきとう存ずる。拙者、陶の首をもって必ず守護職様へのご恩返しとさせていただきまする。是非に是非に、お願い申し上げまするゥ〜ゥゥゥゥゥ」

  ご丁寧に男泣きまで演じて見せられ、義鑑の方もまんざらな気分ではない。
 「ワッハッハッ・・・公家モドキとはうまいことをぬかす。今や乱世じゃ。群雄割拠のこの時代、こちらとしてもそなたのような武勇に優れた者は一人でも多く欲しい。ワシにも娘がおるゆえ、愛しき者を失しのうた親の心、痛いほどようわかるぞ」

 いささか短絡的ではあるが、武将の中にはこうした人情話に弱い人物もおおかったのではあるまいか。もちろん騙された振りをしたことも考えられるが、その後の展開を見るとどうも完璧に乗せられたとしか思えない部分が多々あり、大友一族というものに結構お人好しの血が流れていたように見るのである。大分県人気質がそこに散見できると思うのは筆者だけだろうか。
 それにしても、大内方は先鋒に陶のこせがれを立てて参ったそうではないか。この者、親父・入道に輪をかけた策士と聞く。あまつさえ手を焼く左京大夫の戦力・知略に勇猛果敢な杉因幡守(杉重信)までも参謀に加え、ここな手練れども相手に我が軍はいずこへ陣取ればよかろうのう」

 義鑑得意の誘導尋問に藤井三太夫、待ってましたとばかり膝を乗り出す。

 「さてこそ。おそれながら陶も杉も、いずれたがわぬ策士にござるが、なにせまだ実戦経験が乏しゅうございます。なにせ主人があのとおりの公家まがいの若輩者、まずはここは正攻法で様子を見るでしょう。おそらくは八幡大菩薩のご神力を借りんとして宇佐に集まり必勝祈願いたしましょうぞ。そこからは北馬騎を抜け西屋敷から騎馬の動きやすい立石越えで豊後入りするは必定。峠を押さえ八坂川の水を確保してからいっきに攻め降りる腹に違いありませぬ。なにしろ大内は地の利に疎い。無謀な策はとりますまい。あるいは立石・大牟礼の背後にまわり奇襲も考えましょうが、あそこは熊も出ようかという山道。とうてい騎馬では抜けられませぬ。しかるに我らは峠の両側の山頂にて待ち、敵の侵攻を迎え撃つが良策。立石には金山があるそうな。あのこせがれ、金に目をくらませておりまする。むざむざここな若造ずれに金塊を渡すこともございますまい。先鋒は立石・地蔵の両峠に置き、敵の峠越えを牽制しつつ、一度は後退すると見せかけて、大牟礼山の本隊がいっきに横手から攻め降りれば大内方の混乱は必定。必ずや勝利を我らが手に納められましょうぞ」

 これを聞き、義鑑おおいに喜んだ。

 「さすがは古つわものの藤井殿じゃ。しかし、大牟礼の裏側にはくせ者・大膳亮(佐田朝景)がおるでのう。きゃつら日頃は山猟師をなりわいとしておるそうな。弱小とはいえかつては宇佐の南の砦として辛島一族の祭祀を補佐したほどの家柄じゃ。大内めがこれを案内役に使うは必定。あなどれまいぞ」

 「御意。しかしながらここはまず安心されたい。かの佐田郷、今は田植え前の米神神事の支度でそれどころではありますまい。権威ある宇佐の祭祀となればあたらおろそかにはできませぬ。今頃は巨大な岩倉の前で芝刈りなどに大忙しでございましょう。とてもとても、戦さに関わっている暇などござらんでしょう」

 佐田には古代の祭祀場跡といわれる米神山があり、ここには巨石や磐座、ストーンサークルが散在し、宇佐神宮のちょうど真南にある大元山とともに地元の聖地である。隣接する佐田部落の人々がこうした祭祀に関わらなかったはずはなく、おそらく佐田神社を守る佐田一族も春にはお田植え祭りなど行っていたに違いない。

 「なるほど、あの珍石のお祭りは今時分であったかのう。あいわかった。なんというても民びとの祭りは大事であるからのう・・・」
 ところがどっこい、ここに佐田大膳亮朝景がこの戦さを杉重信に請け負ったという証文がのこっているのだ。天文元年11月の妙見嶽の戦いでこれこれが死に、これこれが捕らえられ・・・と逐一杉因幡守あてに報告した書状である。佐田ははっきりと今度の戦さ前から大内方に味方しているのである。 

 「氏直、氏直はおるか!」
 「ははっ」
 「おお、源氏の血をひくそちの初陣じゃ。こたびの戦さそちの初手柄にせい。先鋒はこの若武者・源石見守に任命する。皆の者異存あるまいな?」
 「御意!」
 居並ぶ諸将に異存のあろうはずもない。吉弘氏直、伝源氏、伝石見守。大友初代能直の12男、中務少輔・田原康広の五代目・又三郎正賢が国東は吉弘郷に入って吉弘を名乗った。氏直はその八代目である。この時齢わずかに一九歳。相貌いやしからぬ紅顔の美少年であったろう。その血筋と真っ正直な性格は歴戦のつわものぞろいの同僚からも愛され、いずれは家判衆の一角にのし上がるであろうと評判のホープである。少年武将は今、初陣の興奮と責任の重さに打ち震えている。
 「ありがたきしあわせにこの若輩、返す言葉もござりませぬ。かくなる誉れ頂し限りはこの氏直、身命に変えて陶の素っ首討ち取ってご覧に入れましょうぞ!」
 「おう!その意気やよし。だがのう、そなたはまだ若い。こたびもしやしくじりがあっても先は長いのじゃ。決して早まった行いは慎めよ。手柄を焦り、つまらぬ先走りだけはするでないぞ。高名を残すも大事。されど家を守り存続さするは、これさらに大事。はやる心を抑え、戦さの有り様をよ〜く見定めるのが大将ぞ。そなたには願ってもない名参謀をつけてやろう。三河!」
 「ハッ」
 「近う・・・」
 「ハハッ」
 呼ばれてツツッと進み出た偉丈夫、使いこなした鎧兜に身を包み、彫りの深い面立ちは風格さえ漂う。寒田三河守親将、主人公の登場である。
 「石見守、この男もちろん存知おりじゃろうが、かの名君18代親治公の重臣であった兵部少輔親景の嫡男・三河守親将じゃ。三河、そなたにこの若大将をまかす。後見役としてよろしく補佐してやれよ。そうじゃ、小三郎はおるか。おお小三郎(寒田小三郎義定・おそらく弟だろう)、そちが若大将の側用人じゃ。あれなら年も近い。よい相談役となれるじゃろう。のう三河?氏直、異存ないな?」
 「三河殿とは親子のように親しき間柄。まして小三郎殿とは兄弟のようなもの、気心も知れておりまする。これ以上の援軍は他におりませぬ。過分なるご処遇、氏直いたみいりましてございまするっ!」
 「ハハハ・・・それがはやる心じゃというておるに、まあ肩の力を抜け。のう、三河」
 「御意。しかれどもそれがまた石見殿の人柄でもありまするよ」
 「まさにのう。ハハッ、はっはっはっは・・・」
 「わっはっはっは・・・」
 と一同大爆笑ではあったのだが、義鑑の杞憂が杞憂でなくなるとは。後から歴史を振り返る者にとってみればひとつひとつの言葉の重さが痛いほど伝わってきて、どんな悲惨なニュースを伝えた後でも「まあ、今日はこんなところです」とのんびり締めくくる筑紫哲也氏のようには達観できないものであろう。

その頃、宇佐の大内方神内では先陣の将・陶興房が、在地の郷士・佐田朝景をはじめとする宇佐郡内三十六に及ぶ地頭を募り、戦略を練っている真っ最中であった。

 宇佐郡佐田郷はもともと「狭田」であろう。文字通り狭い田畑しか作りようもない狭小な山間の閑村であり、それは今も変わらない。

 かつては宇佐八幡の裏側という地の利を活かし、大きな宮も築かれた(佐田神社)。佐田町史には正五位佐田朝臣の名が見える。元をただせば宇都宮氏の出身である。しかしそれも今は昔、佐田朝景はこの僻地の少地頭に過ぎない。それだけに今度のいくさは彼にとっても、一族郎党にとっても最高のチャンスであった。大内方の豊後侵攻にともない、大友が佐田を攻めたため、報復として朝景はいち早く豊後へ密偵を送り込み、大友方の動向を探らせていたのである。

 朝景には妙案があった。

 大友軍は立石・地蔵両峠で大内軍を待ち伏せるに違いない。本陣は大牟礼山に置くのは地元の朝景にはたやすく予想できた。ところが立石側と大牟礼山側の間にはかなりの距離があり、しかも中を通る立石隧道は大牟礼山から遠く、立石山からは眼下に位置している。立石・地蔵の山頂からなら一気に攻め降りれば、隧道を通過する大内軍の横っ腹に大打撃を受けることになる。逆に比較的手薄な大牟礼山を襲えば両山頂からの援軍は到着するのにかなり時間がかかってしまうのだ。ここはどうしても大牟礼山本陣の裏側から密かに近づき急襲するのが得策なのである。大内方もそれを予測して朝景ら安心院郷士たちを集合させたのだ。猟師の使う獣道ならいくらでも知っている。しかも宇佐山郷ともいわれる安心院は八幡のお膝元。宇佐八幡の祭祀の時期にその安心院の郷士がいくさなどに関わるわけはないと敵は油断している。そこを背後から突けば、敵は一網打尽ではないか。

 もちろん大友もそれは予想しているだろう。事実、何度か朝景に謝状を送りつけ、日頃の労をねぎらったりして手なずけたつもりでいる。だがこの僻地の地頭には大友の武勇より、大内のきらびやかな都の香りや賄賂の方が魅力的だったに違いない。当然の話である。都会人のしたたかな策謀の前には、豊後の山猿の正義など歯が立つはずはない。

 こうした事情から朝景は藤井三太夫という間諜を大友方に潜入させ、敵の油断を誘おうとしたのであった。
 「確かに朝景の申すとおり奇襲が最良じゃ。しかし武士としてこのような知略を用いるはいかがなものじゃろうか。京のみかどにご親交賜る我が大内一門が、コソコソと背後から矢を放つような卑怯な手段を使って、後の世に禍根を残すことにならねばよいがのう」
 名将の誉れにこだわりを持つ陶隆房は二の足を踏んでいた。
 「すでに三太夫は敵方に潜入いたしたのでございますぞ。豊後府内からの密偵によれば拙者の手の者どもも「大内は真っ向勝負の峠攻め」の噂を存分に流し、大友は完全に乗せられておるそうな。奇略とののしられようが、策士と陰口たたかれようが、いくさは勝ってなんぼ。表からいって負けいくさに泣くか、裏からいって勝利の美酒に酔うか、この際、背に腹は代えられますまい」

 洒落たつもりの朝景ではあったが、この一言で衆議は一致した。未明、大内軍三千騎は夜陰にまぎれ、糸口原から佐田峠を抜ける間道を粛々と進んで行く・・・。

 立石・地蔵両峠の大友先陣は隧道をやってくるはずの大内軍を今や遅しと待ちかまえている。 一方、大牟礼山の本隊では監視の目怠りなしとはいえど、まさか三千の大部隊が足場もままならぬ背後の山道をやってくるとは思いも及ばず、いくさに備えたいがいの者が仮眠をとっていた。

 「小三郎、若大将はいかがしておられる?」 
 松明の薄明かりを背にして、副将・親将は吉弘氏直の側用人となった弟・小三郎にそっと声をかけた。
 「おう、兄者。見回りとは慎重なことよ。なに心配ない、若大将はよほどの傑物じゃ。初陣というのに高いびきで熟睡しておられるぞ。若さとはいえ、うらやましくもあるわ」

 「うむ、確かに。じゃが先陣の合図はいまだ見えぬ。わしが放った物見の者からも知らせもなしじゃ。こう静かだとかえって慎重にならざるを得んだろう」

 「そうじゃのう。兄者、わしはちと不安でのう。御館様はあの藤井とか申す男の言葉を信用しすぎではあるまいか。どうもあの男油断がならぬように思えるのじゃが・・・」
 慎重居士は兄だけではない、なにごとも疑り深いのが寒田一族の家風なのか、小三郎はしきりに首をかしげた。

 「そなたもそうか。いや、わしもあの藤井三太夫のことを心では疑っておるのじゃ。我らが先祖が故郷・相模の足上(あしのかみ・現神奈川県足柄上郡松田)を出て守護職様と運命をともにした折、さむたの神に祈願したことをそなたも聞いておろう。その時、宮司の松田某がこういうたそうな。フジの花には嘘がある。くれぐれも雅な花に惑わされるな。クズのごとき路傍の花にこそ目を向けよ、とな。奇しくも豊後には我らと同じ寒田の名のつく処ありて、一族その地の呼称を盗り「そうだ」と名乗りはしたものの、やはり「さむた」こそが由緒正しき呼び方であろう。かの西寒田の神を、足上の寒田神社に対し「西の寒田」・・・ささむたと呼ぶのもさむたの土地の名を残さんがためじゃ。じゃが街道に近く武士団の集合に便利な今の稙田に社を移し、太祖・藤原にちなみフジを植えたは御館様の御先代様じゃ。あれ以来我らは大内との確執に翻弄されて参ったように思える。藤井の名は不吉じゃ・・・」

 「う〜む、そういえば春日の大宮司もそのようなことを申されていたのう。勢家の社(大分市勢家町の春日神社)も藤原の守り神じゃが、本来、社とは神の御魂を鎮める処で、大きな声では言えぬが神の顕現を押さえるのが役目じゃと言われておったのう」<BR> 「その通りじゃ。フジの虚飾を借りるは建前。本来我らはクズの出自なのじゃからな」

 豊後一の宮・西寒多神社は今、大分市南部の大字稙田(わさだ)字寒田に鎮座しているが、さきに記したように大野郡犬飼町と野津町の町境にも西寒田神社があり、いずれも地名は「そうだ」である。一方、大友氏の出身地・神奈川には左牟田大明神を祭る寒田神社がある。思うに「わさだ」は「さわだ」がひっくり返ったところからきたやも知れぬ。「さわだ」は寒田の文字で表記されることがあるのも先述しておいた。「わさだ」を早稲がとれる田があるからとする定説について筆者はかねがね疑問を持っている。寒田といわれるような冷水の涌く土地で、南方系植物の稲が早場米として出現するにはかなりの歴史を要したであろうのに、この地名はあまりに古いのである。
 「それにしても物見の知らせは遅いのう。やはりなにかあったか?」
 若大将の高いびきを耳にしながら、親将と小三郎は腕組みしつつ背後の佐田の山々にうろんな目を向けた。実はその頃、その佐田の米神山中では人知れず激しい間者同士の戦いが繰り広げられていたのである。

 大内軍が音もなく進むその頭上三百メートル、巨石群の立ち並ぶ米神山があった。この山の中腹に俗称「月の神殿」という磐座がある。鬱蒼とした静謐の森に包まれたこの山にあって、そこだけは月明かりこうこうとさす広地である。そこに二人の怪しい人影がもつれあうように戦う姿があることを誰も知るまい。

 これこそ親将の案じていた物見同士の争う姿であった。大内方と大友方、両密偵がここではちあわせしてしまったのである。

 双方、忍びの術にたけたつわ者である。一方は頭に笠を被り、僧衣に身を包んだ修行僧、今一方は額にときん、身はスズカケ・結いげさに包み 、手には錫杖をついた修験者のいでたちである。いずれ劣らぬ手練れと見えて勝負はいっこうにつきそうもない。
 修験者の方は親将の間者・又六である。普段は小三郎に仕え、遁行(とんこう・道教の秘術)を鍛錬するかたわら、大友家総領の狩猟などに「犬追う物」として獲物の追い出し役をする下人でもある。寒田又六の名は「大友家文書・犬追物手組付写」に出ている。ここで彼を登場させたのはもちろん筆者の空想である。

 一方、修行僧の方は佐田朝景の手の者、熊の猟師・喜三次。これも宇都宮忍法と宇佐天台呪術の使い手である。

 争いは静かに、されど激しく続いた。互いの術を使い尽くしてもなお戦いは終結しそうもない。眼下に大内の進軍は続く。
 「オンサバラウンケンソワカ・・・」
 喜三次の渾身の呪文がついに又六の内耳の鼓膜を打ち破った。同時に手にした錫杖で喜三次のはらわたがえぐりだされていた。R> 「オンバザラダトバン!」
 「ウワーッ」
 突然、大音響が親将の耳をつんざいた。大軍団の鬨の声があたりの闇を引き裂いたのだ。
 「な、なんじゃ。なにごとじゃっ」
  若大将吉弘氏直は動転していた。押っ取り刀で幕の中からまろび出てくる。
 そこへ寝ずの番をしていた下っ端が飛び込んでくる。
 「ま、ま、ま、まあ若大将落ちついちょくれっ」
 「ば、馬鹿者!落ち着くのはおまえの方じゃ。なんじゃ、いかがしたのじゃ。あの大音声はよもや・・・」
 「そ、そのよもやでございます。お、大内の軍勢がたった今、麓の我らが警護陣に討ち入って参りましてござる!夜襲でございます!」
 山田風太郎風の忍法物からいっきに上方落語の始まりのごときドタバタ場面に様変わりしたかと思うと、親将は腹帯に手を差し入れ、グッと力をいれこれを引き締めて一括した。
 「ええい、落ち着け!慌ててはならん。夜襲は予想の範囲、若大将、ここが肝心かなめの正念場でござるぞっ。おい物見、で、敵はどれほどの軍勢じゃ?よもや全軍でこの大牟礼山に押し寄せたわけではなかろう」
 「そ、それがこの闇夜のこととて定かではござりませぬが、聞こえる音声より察しまするにおそらくこれはもう総攻撃かとも・・・」<BR> 「し、しまった!又六しくじったか!」
 「エエイ、是非もないわっ」

 思わず舌をうつ親将の横で、血気盛んな寝起きの若大将はギリギリと歯ぎしりしてくやしがる。間の悪いことに警護に当たっていたのは氏直直属の吉弘隊である。むざむざ家臣を卑怯な襲撃の犠牲にはできない。我が手勢の危機を生んだは我が責務と、熱血漢、いきなり愛馬の手綱をひくとまさに騎乗せんとする。

 「待たれよ、若大将!」
 すかさず古参の広瀬美濃守が駆け寄って手綱を掴んだ。
 「美濃守殿、止めて下さるな。今しも攻め込まれておるのは拙者の家臣たち。犬死にさせるわけにはいかん!」
 「味方は三方に分散し、敵はおそらく総員。これでは多勢に無勢は火を見るより明らか。ここはひとまず先鋒隊へのろしで知らせ、救援の到着を待つが良策。いざとなれば大牟礼中腹に点在する巨石を落としてでも時間を稼ぎ、全軍の揃うのを待つのが得策という物でござるぞ・・・!」



 「もっともなことを申すな。我が兵はすでに敵に襲われておるのじゃぞ。一刻の猶予もなるものか。三河殿いかに?」
 「むむ、お気持ちはようわかるが、ここは美濃守殿の言うとおり味方の援軍を待つのが最善の策であろうな。若大将、ことを焦ってはならぬ。しばしがまんされよ」
 「むむむ・・・」
 思い悩む氏直。と、そこへ次の伝達が駆け込んできた。
 「と、殿!下はすでに壊滅状態。一刻も早く援軍を願いまする!」
 「ええい是非もないわ!」
 業を煮やした氏直、手にした軍配で馬の尻をピシャっと叩くやいっきに坂を駆け下りて行く。
 「た、大将は陣を離れる物ではない。この小三郎がまいるっ」<BR> おっ取り刀で小三郎が後を追いながら叫んだ。殿様から直接、大将のおつきを指示されたのだ。こんなところで氏直に死なれては、それこそ家名に傷がつくという物だ。自分一人の問題ではない。一族郎党の死活問題にもなりかねないのである。
 「おう!小三郎殿、これは我が配下の問題。お主が来るのは勝手じゃが来るなら黙ってついてこい!」
 黙ってついて行ってロクなことがないのは戦もこの国の政治も同様である。<BR> 一騎当千、急坂を転がり落ちるように駆けだした大将の後を、小三郎は歯軋りしながら追いかける。
 「我こそは源の吉弘太郎なり!遠からん者は音にこそ聞け。近くば寄ってたたっ切る!大将見参ー!!」
 小三郎の思いなどおかまいなし、竹を割り損ねたようなこの若武者は敵軍めがけ突っ込んで行く。雑巾を切り裂くような大音声の雄叫びに敵がひるんだ隙に、もう10騎ばかりを薙ぎ払っていた。

 後塵を踏む格好になった副将・親将はと言えば、若大将の無謀さにギリギリと歯がみしたもののそこは歴戦の雄、武士として一日の長があった。別ルートで敵軍背後へと迂回した。雑木林を抜け、突如躍り込んできた親将隊に、大内方の中央で戦っていた杉長門守は肝を潰した。馬は驚きいなないて棒立ちになる。ここぞとばかり親将の太刀が長門の首を真一文字に跳ね上げた。血飛沫が胴体から>吹き上がり、長門はもんどりうって落馬する。その後を追うように跳ねられた首が目を見開いたまま弧を描いて屍の向こうに吹っ飛んで行った。
 「杉長門討ち取ったり〜!」
 親将の大音声に勇気いたづいた軍勢が、一気に敵大将・陶めがけワラワラと走り寄る。だが陶興房も名うての武将、そうやすやすとは木っ端どもには殺られない。その気迫でかえって味方は押し返されて行く。
 「じきに縁がやって参る。気後れれするでない!」
 「オウッ!」
 副将の励ましに応じたのも束の間、激しい弓矢の音が、前方で奮闘していた若大将・氏直の背を貫いた。思わず馬の背から落ちた氏直は、手にした大弓を杖代わりにけなげに立ち上がり、敵方めがけその弓を叩きつけたかと思うと、すぐさま落ちていた大槍を拾い上げ、ビュンビュンと振り回しながら突撃していった。
 気遣いの目でそれをみやりながらも、寄り来る敵に対処していた親将の耳に、
 「源氏直討ち取ったりーー」
 「しまった!」
 断腸の思いとはこのことだ。家名をおびて副将をおおせつかりながら、目前で大将の首を取られてしまうとは。親将のまぶたに、家で待つ妻や子の顔、一族と領民の姿が次々と浮かんでは消えていった。彼らは皆、これから土地を捨て、人目を避けて生きて行かねばならないのか。思わず両の目に無念の色が現れる。だが、今はそれどころではない。再び武将のまなざしに立ち返り、殺ったのはどいつだとばかりに、親将は刀を振り上げた。
 「者ども、若大将の首、敵に取らすな。このわしに続け!」
 その声に吉弘、寒田の譜代の侍20余人、
 「主君を討たせ、このうえ何の面目にて生きて帰らんや。誰がために惜しむ命ぞ!」
と、これに続く。
 寒田家家臣・野原対馬守、都甲伊豆守、志手加賀守、及び長野越州等が馬を揃えてこれに続く。
 快刀乱麻とはこの人のことか。遮二無二敵軍めがけ討ちかかり、当たるを幸い薙切りにしてゆく力尽き、首を取られた氏直のむくろに、無情にも片足を乗せ、得意げに首を振り回しているのは、ナンと、かの藤井三太夫ではないか。若武者、弱冠19歳の氏直の手には、あはれ先祖伝来の大槍がしっかりと握りしめられ、その背には2本の矢が突き立っている。周囲には氏直の家臣たちーー室対馬守、夜間掃部介、三河外記、丸小野三郎右衛門、末綱藤左衛門らの家長を守らんとして壮絶な死を遂げた者どもの屍が累々と横たわっていた。親将の目には我が弟・小三郎義定の満身血みどろの死に姿が飛び込んでいた。
 「おのれ、ここな裏切り者。汚らわしきその足をどけいっ!」
 一瞬、三太夫の右足は中空を舞っていた。
 「グワッ」
 ひしゃげた蛙の如き叫び声とともに、三太夫はその場に突っ伏した。と同時に氏直のそっ首を掴んだ左腕も空に舞い上がっていた。R>
 「人非人!」
 悶絶しつつ叫んだ三太夫の背に、親将の業物、十文字槍の切っ先が突き立てられた。
 「人非人とは貴様の事よ!若大将の背にも刀傷。うしろから斬りつけたは三太夫、貴様であろうがっ!」
 振り返れば氏直のむくろには肩から袈裟懸けに刀傷が一本、くっきりと残されていた。
 「若大将!」
 まだあどけなささえ残る氏直のむくろを抱き上げ、感涙にむせぶ親将の背に、突然激痛が走った。背後より飛来する幾多の矢叫びが親将の甲冑を貫いたのである。しかし、平然と立ち上がった親将は矢来の彼方を振り返り、
 「臆病者め!怖くて正面からかかってこれぬのであろうが」
 言い放ったこの勇将の腕には、大将、源氏直のそっ首がしっかりと抱きかかえられ、屏風のごとく倒れた後も、それを放そうとはしなかったという。
 親将の討ち死にした場所からはコンコンと水が涌き、山から里へと流れ落ち、田を潤したという。いつしか麓に祠が建ち、誰言うともなく「寒水様(そうずさま)」と呼ばれたという。
 遅れはしたものの、田北勘解由ら味方先陣の救援によっていくさは大友方の大勝利に終わった。敵将・陶興房も善戦したものの、援軍の勢いに仰天し、ワラワラと隊を崩して逃げ出した。野原対馬、志手加賀等は敵を追い散らしながら、
 「穢い連中よ。大将・杉を失って何の面目があろうか。とって返して尋常に勝負せよ!」と毒づいた。これを聞いて数名が戻って戦ったがもはやかなわず、あっという間に討ち取られたのであった。残兵達は我先にと麓へ戻ろうしたが、道案内の佐田朝景はとっくの昔に逃げ出して戻り道不明。あちらこちらへと散り散りに逃亡したものの、あるいはヤブに迷い込んで破竹に我が身を刺して死に、あるいは野壺にはまり憤死し、あるいは谷底へ落下し、中にはその場で自害する者もあったが、多くは命からがら周防へ逃げ帰り大恥忍んで生きたという。
 大友方の失った武将は、親将家臣・小三郎義定、井元但馬守、井元右京、伊東左京亮、樋口縫殿祐。氏直家臣は先の五名以下、小人小匠14人、中原10人。総勢273人、大内方は杉長門守以下、358人であった。(「大村陣勢場合戦記」より)
 その後も大内と大友の争いはやまず、天文7年、将軍・足利義晴の仲裁でやっと講話が結ばれた。以後、大友義鑑の鉾先は肥後以南へ向けられ、天文12年に肥後守護職を兼務するほどになった大友氏の所領は、鎌倉創設期以来の栄華を取り戻すことになったが、それも束の間、
その子義鎮(宗麟)のキリシタン傾倒が豊臣秀吉の逆鱗に触れ、またその子義統の朝鮮征閥での敵前逃亡によってついにこの九州最大の戦国大名・大友氏は衰滅してゆくのであった。
 一方、大内氏はと言えば、これもまた中国の新鋭・毛利氏に滅ぼされ、貴族まがいの栄耀栄華の歴史に幕を下ろすのであった。剛勇も名族も同じく戦国の浮沈の中にその名を書滅させていったのである。盛者必滅、これが歴史の掟であろう。


 今、筆者の立つ大牟礼山山頂には勢場ヶ原の壮烈な戦いで無念にも命を落とした、我が先達、寒田三河守親将家臣及び、若き大将・吉弘源氏直以下、その家臣達戦没者の墓と慰霊碑が建てられ、山香教育委員会のご好意により大切に守られながら静かに眼下の山々を見下ろしている。墓は江戸時代、福岡・柳川の寒田新介という人により建てられたと書かれているが、彼と当家の関係を物語る資料などは一切ない。
 墓碑には「寒田三河守寒応智音大居士」と戒名がある。裏には、「寒田氏、其先出大友氏、大友左近将監 能直七世寒田三河守親将、戦死于豊後国大村山実天文三年卯月六日也、葬大村山上、諡智音公、碑石、距今数年而折、文政甲申十一月、再命工改造焉、十一世孫柳川士寒田新介鎮邑謹再建」
 これで見る限り、本家親将子孫は柳川に移ったらしい。稿中申し上げたとおり、大将を守れなかった武家としての寒田氏はそれを恥じ、各地に流出してゆかねばならなかったに違いない。当家は春日神社神職であるため、府内に残りその霊を鎮めてきたのであろうか。寒田新介がいたという柳川は大友氏の縁戚であるから、あるいはそちらへ、あるいは同じく縁戚の立花家などへ流出した者たちもいたのではあるまいか。日本のどこかにまだ寒田姓を名乗る人々がおられるのかも知れない。
 思えば、なにかに惹かれるように京都から故郷・大分に帰ってきた筆者を、この山に導いたのは祖霊の意志だったのかも知れない。そして、宇佐神宮の謎に傾倒し、調査に向かわせたのもこの見えない意志のおかげであり、宇佐のすぐそばにある大牟礼山近くの佐田部落で、筆者の車が畑に転落したのもそうだったのかも知れない。先祖はこの血の繋がらない風来坊を謎ときの探偵に選んだのだろうか?
 いやいや、そうではあるまい。寒田家傍流中の傍流の筆者にそんな資格があろうはずもない。筆者には祖霊の声が、
 「もうそれくらいでよい。おまえの役目はもう済んでおる。あとは好きな神社巡りなりなんなりに戻って勝手にすればよい」
 そう言ったような気がした。
 山桜が春の海風に煽られてひとひら、はらりと散った。                                




                                         合掌
参考資料 
田北 学「増補訂正編・大友史料」1・2
大分県史料刊行「大分県資料」
渡辺澄夫「大分県の歴史」
大分県観光課・梅原治夫「ガイドブック・大分の旅」
安藤輝国「消された邪馬台国」
大分合同新聞社・梅木秀徳「各駅停車・全国歴史散歩大分県」

参考文献
大村陣勢場合戦記
 勝山歴代豊城世譜
 藤原秀郷流近藤系図
 大友氏系図
 佐田文書
 大乗院寺社雑事記
 豊後国志
 大友家文書
 寒田三河守墓碑銘
 寒田文書
 春日大明神文書 

本編

佐田朝景合戦手負注文

大牟礼山山頂の親将の墓石・花は筆者献花

4

「国境の抗争もたびたびあったが、なかでも最大のものは大友氏の戦史のなかでも有名な勢場ヶ原の合戦だろう。天文3年(1534年)のことである。当時、豊後守護職を得ていた周防の大内氏は北九州に勢力を伸ばし、豊筑のいたるところで大友氏と対立した。その最後の決着をつける戦いがこれである。


 大内軍は三〇〇〇余騎、大友軍は二八〇〇余騎。・・・・・・大内軍は裏をかいて間道をとって勢場ヶ原に姿を見みせ、大村山にいた大友の本軍と激しい戦いとなった。多勢に無勢で緒戦は大内が優位。そかし、後半は峠から引き返した隊を加えて大友優勢で幕。結局は痛み分けとなったが、大内氏の豊後後略はこれで失敗に終わった。」
        大分合同新聞社・梅木秀徳 「各駅停車・全国歴史散歩・大分県」
  

 大村山は元、大牟礼山である。「ムレ」とは半島の古語で「山」を意味するらしい。つまりこの山はこのあたりの山塊では最も大きい「大山」ということになり、ここを本陣とした大友軍の戦略が決して間違いではなかったことがわかる。山頂に登ると確かに周囲の谷を一望する高台である。東に立石の高峰を望み、真下には当時唯一の街道・立石隧道が走っていて、現在は国道である。立石山は金山を擁しており、江戸期には相当量の金を算出しているがこの時果たして金の存在を両雄が知っていたかは定かでない。もし知っていたら戦いはもっと長く続いていたことだろう。ただ、豊前から豊後へ進入しようとする者はどうしてもこの狭い峠を越えないわけにはいかなかった。豊前豊後の国境、山香はまさに国盗りの最前線だったのである。

 当時、大友氏は九州最大といわれる勢力を誇った11世紀の親能の時代ほどではないがその名声は京にも聞こえた豪族であった。一方、大内氏も皇室とえにしを結ぶほどの名家で、一時は周防・長門・筑前・豊前にまたがる領地を占有していた。

 時代は戦国、下克上の世である。信長ひとりが天下をめざしていたわけではない。全国各地で同様の小競り合いが繰り広げられたのであろう。18代親治から2代下がった20代大友義鑑の時である。天下はすでに信長の出現を待っていた。大友義鑑は大友家を傾けるきっかけをつくったキリシタン大名・大友宗麟の父である。大方の時代背景はご理解いただけたであろうか。

 勢場ヶ原の合戦の契機となった大内・大友の小競り合いは享禄元年(1528) 12月にかの有名な大内義興が死去し、その子・義隆が跡目を継いでから再燃し始める。親治以来、大友家は大内と和平を結び、両家の間に抗争は長く途絶えていた。しかし大内義隆は総領を引き継ぐやいなや筑紫の少弐氏にいきなり戦さを仕掛けてきたのである。その理由は大内側に資料がなくまったく不明である。少弐と縁戚関係にあり同盟国である大友氏は、当然、少弐に手を貸すことになる。大内の本命はあくまで大友領地なのである。どうも大内氏は宇佐神宮の八幡神の権威を振りかざして全国制覇を狙っていたのではあるまいか。そのためには後方に控える大友は目障りになる。周防が豊浦といわれ豊の国の神領だと考えると本拠地の豊前を手に入れた今、残るは豊後である。武家の本願でもある八幡神は同時に天皇の第二の宗廟でもある。これを完全に領有することで朝廷への影響力はさらに強くなるのである。事実かつて平家もそれをもくろみ、最期は宇佐八幡に見捨てられてしまったが。しかも豊後には豊前にはない両港が多い。ここを拠点に一気に九州を我が手に納めんとした可能性もある。もちろん、これはあくまで筆者の想像に過ぎない。
 天文元年、大内は陶尾張入道・多多羅道麟(すえ・たたらどうりん)を将として少弐領地に攻め入った。時の豊後守護職・大友義鑑は後方支援として、この時すでに大内の属城と化していた豊前・妙見嶽城を攻め、大内方を牽制。その間も道麟は少弐を攻め立て、筑前立花城、肥前・朝日城、筑後・大生寺を次々に手中に収め、その勢いに乗じて天文3年3月、ついに豊後玖珠郡に侵攻してきた。

 大内義隆はここでさらに別働隊として道麟の嫡子・陶隆房(のちに陶晴賢と改名)と杉重連を豊前宇佐郡佐田に投入、いっきに豊後北部からも侵攻せんとする両面作戦に打って出た。大友方はこれを死守せんとして、佐田に近い速見郡山香山浦大牟礼山に陣取った。

 ここに大友・大内最大の決戦・勢場ヶ原の合戦は幕を切って落とされたのである。
 以下は我が家系中、唯一の勇者ともいうべき寒田三河守親将の誉れ高くも壮絶な合戦絵巻である。あくまで物語である以上、筆者に誇張・創作・依怙贔屓などあったとしてもそれは大目に見ていただく。あしからず・・・。

                    

 政親は臼杵で大内氏に船に乗せられ筑前まで連行され、さらに長門で剃髪させられていたのである。しかもその後切腹させられもした。しかし実は久住からすでに大内の手が回っていたのだと思う。そうなると朽網氏はいったいなにをしていたのかということだ。手をこまねいて親方が連れ去られるのを見ていたのだろうか。

 そこに政親親子の迷走に対する家臣たちの思惑が見え隠れしてくるではないか。ここまでくるとさすがに素人の我々にも叔父・親治の存在があって本当によかったと気づくのである。まさに大友家は家臣たちに見捨てられようとしていたのである。それを救うのがまさに親治であった。

大内に詰め腹を切らされた政親の後を追うように息子・義右も他界し、大友家重臣だった市川・田北・朽網などあわせて500人に及ぶ家臣たちが責任をとらされて討ち死にの目に遭っている。「切腹」ではなく「討ち死に」であるところに叔父・親治の処断の早さ、厳しさが見て取れる。他はしらず、朽網三河は当然の処置と考える。

 そんなとんでもない時期に後を受けた親治も、やはり我が子に「義長」と義字を入れ、大内の養子に入れることでライバルの非難をかわそうとしている。実に涙ぐましき和平への努力ではないか。諸説あるもののこの守護職、歴代大友総領の中でも見識の高さでは図抜けている。これ以降、大友家総領の諱には「義」字が使われてゆくのであるが、それよりもなによりも大友家が中央からも認められたことの証でもあろう。なにより親治のえらいところは旧家老連をさっさと退け、総入れ替えして己の地場固めに迅速だったことだろう。おかげで我が寒田一族の名も後世に残ることとなる。

 それにつけても中世の武士たちは、どれもこれも似たり寄ったりの争いごとばかり起こしているわけだが、要は中世史そのものが勢力争いのための仁義なき戦いではあった。
 大友・大内に限らず、すべての武家が大儀の名を借りた血みどろの勢力争いを繰り返し、やれ源氏だ、やれ平氏だ、いや藤原だとどさくさにまぎれて、家系もなにも改ざんしてしまう。本家だ、嫡男だ、正当だなどと公家のものまねにひた走り、あげくに一族離散したりする。

 大友家が源頼朝直系だなどというのも極めて怪しく、筆者は半島の花朗衆に端を発する渡来系氏族の風習が伝わった郎党が武士団で、頼朝の権威を貰うため寵愛を勝ち取らんとした売名行為に等しい物だったのではないかと思えてならない。武家もしのぎに必死な時代であったのだ。

 さしずめ織田信長に仕えた森蘭丸などもその最期の一人であろうか。武家の歴史に際だっているあの残虐性・恣意的な中央志向には、古代に朝廷に簒奪、追放の憂き目に合った帰化大陸人たちの怨恨がひしひしと感じられてならないのである。これは未だに筆者の血の中にも残っているのかも知れない。


 
 それはさておき、その後しばらくして親景の子の時代まで寒田姓は現れない。分家などあったであろうが一切記録になく、35年を経てようやくすでに成人して立派な侍大将としての寒田親将が颯爽と、しかも唐突に現れる。現れたかと思うと、実はそれが最初で最期の登場で、いきなり戦死し、そのあと当家古文書には、先に述べた天正の大宮司・寒田左衛門大夫鑑秀が、そしてさらに下って天文23年に春日御神領坪売却の件で寒田出雲守次郎左衛門が登場して、その後はさっぱり不明となる。家系図はあったのだそうだ。春日神社宮司の家系である叔父の長谷清彦氏によればおそらく春日神社かいずこかの図書館にでも、長兄の嫁が寄贈したのではあるまいか、ということであった。清彦叔父所蔵の古文書及び当家所蔵の「寒田文書」はそれぞれ金剛宝戒寺に手厚く管理を頼み、法要を持って治められている。しかし、そこにはこれ以外の寒田姓の者は記録されていない。父の父、すなわち筆者の祖父が春日神宮寺浦に住んで、鍛冶職を営んだことだけが我が兄弟の知りうるすべてになろうとしていたのである。

 先頃、この祖父が「とりことりよめ」であり、最期の寒田一族の末裔である寒田モカに養子に入り、祖母とともに寒田姓を受け継いだと知ったのである。祖父の旧姓は佐々木だったそうである。明治頃は「そうだ」姓は誰も読んでくれず、学校教育を受ける上で支障があってはと、祖父が「かんだ」にしてしまったらしい。だからまだ小学生だった父だけは物心つく前で、こだわりがなかったから正当な「そうだ」にせよと祖父が決めたのであろう。それが清彦叔父の意見である。

 なお、叔父・長谷清彦を最期の神宮寺大宮司継司とする大分の歴史書があるが、実際には野津原町神角寺の和尚であった、清兵衛氏が本当の社司であったことを付記しておく。この人は宝戒寺の先代住職とは兄弟弟子であったということである。また現住職と父、叔父は兄弟弟子にあたる。えにしである。筆者は三男で、どちらかといえば放蕩息子の方だが、歴史好きが高じて山香の大村山に寒田親将の墓があること知ることになった。最初はそんなつもりなどなく、宇佐神宮と渡来人の関係を調べていたのである。それがいつしか安心院から別府へ抜ける県道を何度も走ったり、本を読みあさっている間にご先祖様の墓にゆきついたのであるから、これもまたえにしと言わざるを得ない。今度、父がわずらい後を嗣ぐ者のいないことに気づいた筆者は慌ててこれを書いているのである。なんとも罰当たりなことではあるが、京都から故郷に帰ってきたのもやはりなにかの縁なのではあるまいか。
 なにはともあれ、名総領とうたわれた大友親治から大内氏との和平関係はしばらく存続して行くのであるが、ことは大内の世代交代がきっかえとなりいよいよ戦乱の火ぶたは切って落とされるのである。


  
 さて、お話はいよいよ本題に入る。時は亨禄元年・・・

 それはさておき、政親は何故か久住山麓の朽網一族の元に身を隠す。病弱な息子にではなく、その嫁のバックにいる大内氏の権力を畏れたのである。義右はすでに大内の傀儡と化していたのだ。

 久住はかつて臭い水の涌くところ・・・「くさみ」が訛って朽網とよばれた。当地の武将・朽網三河守とは縁戚関係にあった。中でも朽網親満は後に家判衆に加わっている。この武将も「親」の諱をつけているからかなりの近縁者には違いない。

 しかし政親はすぐ朽網から出て、海岸部の臼杵へ移っている。臼杵から海路、筑前へ向かい、最期は長門で出家してるのであるが、せっかく隠棲した山奥から一転して海へ行き、さらに大内の本拠地に近い長門へ行くとは妙な話だと首をひねっていたら、案の定、この道行きは大内氏の拉致監禁によるものであった。

                   3

「なにを考えちょるンか、義右ン奴ァ・・・」

 親治が大分弁でそう嘆いたかどうかは定かでない。京で生まれ京で死に、おそらく一度も領地・府内にはいらなかったであろう初代・大友能直はさておき、三代・頼泰以降は少なくとも豊後府内の上野の丘に守護職として居住地を確保し、実際に住んでいたのではないかといわれているから、15代下がった親治の時代には大分言葉が武家の間に浸透していても不思議はなかろう。

 三代から領地に住んだと思われるのは、文永年間の蒙古襲来に備え、幕府が鎮西御家人たちを地元に下向させているからである。これは佐藤進一氏の説で、炯眼である。

 そもそもが大友氏の出自自体よくわかっていない。
 「大友」は相模の国の郷名である。母方の波多野氏がここに入って名乗った氏姓だ。波多野というからには渡来系だろうか。

 一方、父方は古庄氏である。当初、初代大友能直は豊後守護職・中原親能に養子に入り中原を名乗っていた。つまり、豊後守護職の役職は中原家から引き継いだものということである。それが相模・大友郷に入った母方の大友に改正したのはなぜであろうか?想像ではあるが、中原家に長男を置き、自分はおそらく長男が夭折するかで跡目のいなくなった波多野大友氏の嫡子として再び出戻ったと言うことかも知れない。では古庄氏は誰が継いだか、また波多野家は誰がなどはここでは論議していたら話は前に進まなくなる。

 とにかく藤原秀郷の血を嗣ぐ近藤家から別れた氏族であることは、系図の上では間違いなさそうである。もっとも藤原氏を祖としたのはその権威を利用しただけかも知れない。武家では一般的なやり方であったのだ。客観的な西洋史観で見るなら、武家は皆どこの馬の骨やらわからないというのが正しかろう。すくなくとも公家から見ればそういうことである。簡単に相関図で示すなら、能直から見れば、波多野>中原>古庄だったということであろう。武家はまだまだ立場が弱かったのである。
                            

 豊後一の宮・西寒多神社のある寒田地域の入り口に旦の原(だんのはる)という地名が残っている。『旦』は「団」で、つまり中世武士団の集合場所だったのだろうと学説は言う。ここは先の犬飼町の寒田からもほど近く、豊後南部の武士たちが大友屋敷のある府内に出向くにはちょうど通り道に当たる。豊後随一の大河である大野川沿いの平坦な土地であるから今でも一級国道10号線が走っていて、県南と県都・大分市を結ぶ交通の要所である。しかも旦の原はちょっとした峠になっていて、府内への最後の砦を築くには最適のロケーションなのだ。今、自衛隊がここに陣取っているのも納得できるのである。

 同じ「旦」は県央部の玖珠郡にも「下旦」があり、おそらくかつては上旦もあって西からの脅威を防ぐ砦だったろうと思わせる。もしや我が寒田一族はこの徴発兵団の長であったかも知れないが、親将の父、寒田兵部少輔親景(ちかかげ)の史料には、彼が宇佐神宮所領の田染庄の荘園管理に携わっていたという古文書が「大友史料」に残るだけである。
 いずれにせよ寒田一族が大友家とともに相模国からやってきたことは間違いなく、それまでは豊後とは関係があったかなど定かでないが、その後大友家家判衆の一人として親景がいたことも確かである。

 寒田一族の名の初見はこの親景である。大友18代・親治(ちかはる)・御所の辻合戦の際に、日田一族の内戦を鎮める年老連6名に名を連ねている。

 兵部少輔(ひょうぶのしょうに)とは武器管理者の役職名だろうか。大友親世6世孫とするがいかがなものであろう。しかし大友家総領の諡号(諱、いみな、送り名)、それも初字の「親」をいただいているところを見ると只者ではなかったのだろう。

 大友家年老は家判衆と呼ばれた。親景同時代の家判衆として大津留繁綱・永富繁直・小佐井監永・朽網(くたみ)親満・本庄繁栄がいる。これらはすべて地名を姓としており、寒田親景も又、地名をとった姓とも考え得るが例外もあり確かとはいえない。しかし、この中で先代からの年老といえば本庄繁栄只一人であるから、あとは親治が入れ替えた、いわば新進気鋭の若武者であろう。世代交代が昔もあったわけだ。

  親治の先代と言えば兄の政親が16代、その子義右が17代で、病弱な義右の跡を本家でない叔父の親治が継いだのは非常事態だったと想像できる。

  もっとも、大分県の歴史に詳しい渡辺澄夫氏によれば、大友氏が直系による家督相続を企てたのは政親親子が初めてであり、当時の守護大名としての大友氏にはまだ自力で家督を決定するほどの統率力はなかったらしい。これはほとんどの守護職(鎌倉時代はしゅごしきという。しゅごしょくではない)は幕府にお伺いをたてねば総領を決められなかったと言うことだろう。ともあれ義右の嫁は対立していた大内家の娘であった。つまり政略結婚である。義右はなんとこの勝ち気な嫁にいいように使われたらしく、こともあろうに大内氏に味方しようとした。こんな息子を大友総領として父・政親が許すはずもなく、この親子はつねにゴタゴタが絶えなかったのである。

不仲のきっかけは義右が父を無視して追放将軍・足利義材に味方した頃から始まっていた。父にとって見れば一度は破れた将に手を貸すなど、たとえ相手が前将軍であったも、大儀に反する行為としか思えまい。織田信長に追放されそれでも逆らおうとした男だ。すでに時代の流れからこぼれ落ちてしまっている。親子のどうしようもない確執のあとを受けた親治の苦労は思うにあまりある。しかし逆に考えれば、これは変革のよいチャンスでもあった。旧勢力を早急に退け、彼らの影響薄い親景らを取り立てたのは親治の手腕の高さを示している。

この部分の説明に間違いがある場合作者にご教授下さい。翻訳の誤りなどは即時に訂正いたします。

けっぷうせばがはるけっせんえまき

  思えば、物語の主人公・寒田親将(そうだちかかど)と筆者が同姓であるからといって、両者にはなんの血の繋がりもない。

 天文3年4月16日豊後速見郡大牟礼山(おおむれやま・現大分県山香町勢場)における「勢場ヶ原の戦い」での壮絶な親将の討ち死以降、その行く末さえあずかり知らぬ寒田氏の、これまたいつそうなったのかさえ聞かされない家名を継嗣継嫁で引き継いだ先祖の流れを汲む、今となっては傍流のそのまた傍流が筆者である。

 幼い頃、筆者はこの姓が好きではなかった。大概の人は大人でも、この寒田の姓をまともには読んでくれないからだ。よその人間が筆者を呼ぶとき、多くは「かんだ」、まれに「さむた」、中にはご丁寧にも「ささむた」と呼んだ数学教師もいた。「寒田」の字のどこにもわざわざ「さ」と付け足す要素はない。かの教師はどう読んでいいかわからず、豊後一の宮・西寒多神社(ささむたじんじゃ)の名前を思い出したのだろう。確かに西寒多神社の鎮座まします所は寒田というばしょには間違いない。言った方は忘れているだろう。だが、言われた方は一生忘れない。まして子供ならなおさら忘れられぬ嫌な思い出として脳裏にこびりついている。

 いっそのこと、伯父一家のように「かんだ」で通していてくれればよかったものを、と思うこともある。祖父は「そうだ」という読み方に由緒があると知ってから、なぜか五男の父にこの訓を使うよう命じたらしい。なぜ長男ではなく父だったのか、あるいはなぜ全員がそう名乗るようにしなかったのか、これまで不明だった。長男は病弱で夭折し、次男の伯父は「かんだ」なのであり、三男は養子に行き、四男は戦死した。あとはすべて女であるから結果的にこの姓を嗣ぐのは伯父と父だけとなった。

今考えるに、寒田親将の死後、後裔たちはなんらかの理由で呼び方を「かんだ」に変えたらしい。それだけこの名は目立つ姓だったのだろう。

 大分県南部の野津町と犬飼町の境に寒田集落があり、西寒田神社が人知れず祭られている。大分市の豊後一の宮・西寒多神社とは「田」と『多」の表記の違いがあるが、圧倒的にこちらの方が寂れている。だが、どの地域でも元宮というものはすたれるものであろう。権威を加味された神はより多くの人々に大切にされる。

 文字にこだわらなければ「そう」という場所は全国にある。例えば久住山の麓のキャンプ場がある「走水」は「そうみ」と読むし、和歌山県の山奥の秘湯・龍神温泉は「寒川」(そうかわ)という川が流れている。総じて冷たい水の涌く場所に「そう」という地名は多く、場合によっては「さわ」となることがある。福岡県の求菩提山の谷間には寒田と書いて「さわだ」と読ませる村がある。山間部に多い名前だからいきおい山岳宗教と結びつきやすいらしく、その意味で戦さのあと春日神社の神宮寺住職となった親将の後裔たちは、やはりなにがしかのえにしで神官を兼ねる僧職についたのだろう。我が家には神官が持つ杓がある。九州は、特に北部は道教や仏教が渡来の人々によって早くから入っていたことはまず間違いなく、おそらく上古にはまだ、神職と僧職の区別があいまいだったのだろう。

 現在、大分県史料集をひもとくと「春日大明神」の項に次のようにある。

 別当神宮寺、大宮寺(大宮司のあやまりか)、寒田氏ハ乙女命婦等、隔年ニ祭祀ヲ司ラシム。(後略)「以上聞書及ビ豊日志当社宮帖」
 
 さらに、

 大宮司寒田氏。今ノ龍祥院、即チ此寒田氏ノ旧跡ナリ。

 当家が大宮司を務めていたという証明であろう。「天正14年大宮司寒田左衛門大夫藤原鑑秀(かねひで?)神宮寺真覚並祝職の時、薩凶乱入」・・・つまり戦国時代には戦火にみまわれたという。また天文23年には大地震で神宮寺が崩壊、寒田大宮司が神宝を別府湾に沈めてこれを鎮めようとし、信者たちに殺されかかってもいる。一時は住居も失い断絶したともある。なにが断絶したのかは書かれていないが、おそらく寺と住居が焼失したのだろう。この時はしかし大宮司と鷹尾山神宮寺長老の真覚とで大友義鎮(宗麟)へ直訴し、社殿だけは再建されている。
 結局は明治の廃仏毀釈で神宮寺の方は焼失し、筆者の祖父が還俗し長い春日神宮寺の歴史は終わることとなるのだが、記録を信ずるならば当家の先祖が春日神社を守ったことがあったというのである。
 

〜血風勢場ヶ原決戦絵巻〜

寒田親将

そうだちかかど

前に戻る