13 鉄のシルクロード   製鉄開始から日本到達までの1500年


人類の製鉄の開始は紀元前1300年頃、現在のトルコ共和国アナトリア地方に存在したヒッタイト王国の国王・ハットウシリシュ大王がエジプトのラムセス二世に送った手紙が最古の記録でありますが、その時代をはるかにさかのぼる古ヒッタイト王国の時代の地層から鉄器は発掘されていますので、おそらく紀元前2000年くらいにはすでに始まっていたと言われています。

ヒッタイトの鍛治技術はエジプトの攻撃を押し返し、それによってラムセス二世王は驚愕し、その後はハットウシリシュ王とのえにしを結んで製鉄技術を導入してゆくことになります。この時、ヒッタイトの技術者たちはダマスカス〜エルサレムという死海の道を通って技術を運んでいきました。紀元前3世紀くらいまでに死海周辺にはヒッタイトたちが住み着いていたのです。おそらく今の
シリアなどのパレスチナ人の中にも彼らの血が入っているのでしょう。

かのツタンカーメン王亡き後に、妻のアンケシュナーメンはヒッタイト国王の子を夫に迎えようとピルリウマシュ一世(BC1375〜1335)に懇願しています。それほどヒッタイトの鉄はエジプトをてなづけてしまったのです。

その後紀元前11世紀頃にヒッタイトはアッシリアに取って代わられ消滅しますが、民族は各地へ流出してゆき、鉄の技術もダマスカス〜エルサレム、バビロニア、パルティアを経て各地へ伝播してゆきました。

エジプトをナイル川を南下したクシュ王国の鉄滓の発見はアフリカに対する文化果てるところというそれまでの考古学者が持ってきたイメージを一変させました。
またエジプトから地中海エーゲ文明のクレタにあったバクトリア(ギリシャ)を経てローマに入り、さらに西へ行ってスペインのピレネー山脈の麓、バルセロナ北部近辺・旧カタロニア王国へも伝わり、カタラン製鉄法という独自の工法が発達します。

東のルートではシルクロードを遡り、現在のアフガニスタンのパシュトウーン人のいるバーミアンやカブール、カンダハール、ペシャワールと言った最近聞きなれた都市を抜けて二つの方角・・・現パキスタン〜インド南部ウーツ〜チベット〜江南の夏、商、殷へ。今ひとつはバーミアンから北上してホータン・楼蘭・敦煌を経て西安、タタールへ。・・・と伝播していったのです。

またチグリスユーフラテスを下ってバビロニア(イラク)を抜けて紅海から船に乗ってインド、インドシナ、海南島へと海の道でも伝わっていったのです。

漢王朝のあった西安周辺でさらに工夫を加えた技術が発達します。それは中東にはなかったマンガン製鉄だったことでしょう。南インドのウーツは中国の鋼を溶かすことができるウーツのるつぼというすばらしい鋼溶解が可能な炉が完成しました。これが山東半島やカヤを通ってまず九州の西海岸に伝わったのだと東北大学の窪田蔵郎氏が書いています。

有明海からは南周りで薩摩半島をまわり、太平洋沿岸へと伝わっていったのだそうです。北部九州の筑紫からは瀬戸内海を通って近畿へと伝わりました。しかし、この二つのルートに乗った製鉄法にはあきらかに違いがあるのだそうです。

高橋一夫氏によれば「西の炉」と「東の炉」は根本的に違っており、西が長方形箱型炉という、やがて出雲のたたらに発展する高炉を使うのに対し、東国などの太平洋沿岸では半地下式竪型炉を使います。そしてそれは網野善彦氏が言うには中世になってもがんぜんと続けられていった。江戸期にはいってもそうだったのだそうです。

斎明天皇紀には東征将軍である阿部比羅夫がミシハセ(粛慎・えみし?)を遠征したときに海岸に鉄を置いておいたところ、粛慎たちが自分の服を脱いで鉄と交換して持ち去ったという記事があります。えみしも660年の頃にもう鉄を知っていたのだといいます。彼らの製鉄法はどっちだったのでしょうか?おそらく三内丸山と九州の物々交換があったことを考えれば、それは太平洋ルートから伝わっていたのでしょう。それとも北のタタールから北海道経由ですでに野だたら製法が伝わっていたのでしょうか?

瀬戸内の岡山県金クロ谷からは7世紀初頭、鉄鉱石を使った遺跡が出ています。また滋賀県源内峠からも見つかっていて、砂鉄一辺倒だと思われていた古代の国内製鉄がそうではなかっという大事件になりました。真金吹く吉備という枕詞の真金とは実はマンガン鉄鋼のことなのです。

これに対して「熊野の真砂」「浜の真砂は尽きるとも」の真砂とはチタン磁鉄鉱(もち鉄)のことです。

砂鉄のたたら製鉄はやや時期が遅れて平安〜中世にタタール〜中国〜インドへと逆コースをたどり日本へ輸入されます。その時にインドで「タタールから来た工法」と言っていたのが「たたら」となったのです。西安方面から一度北上していったアナトリアの製鉄がタタールで砂鉄に対応したのか、あるいはシャーマニズムの女性労働と融合し、あの足踏み式ふいごができあがったのか?

ところで、鉄を溶解する炉の上には古くは(こしき)という蒸篭が置かれます。現代の製鉄所ではヨーロッパから伝わったキューポラという丈夫なこしきを用います。鋳物産業が発達した埼玉県川口市にはこのキューポラがはやくからたくさん使われていました。それが映画になったのが吉永小百合の「キューポラのある町」でした。もちろん埼玉県にイモジが多かったのは、古代からここに鉄があって、稲荷山古墳から鉄剣が出たことと大いに関係があります。埼玉も群馬も茨城も、千葉も、霞ヶ浦沿岸域には佐伯、大生部などの多氏眷属が九州有明から入ったからです。5世紀くらいのことでしょう。

さて宗像から出雲の関係は日本書紀にも感じられますし、また日本海沿岸沿いには非常に砂鉄が多く、青森県の三内丸山〜新潟県寺地遺跡〜石川県チカモリ遺跡、真脇遺跡〜出雲大社〜吉野ヶ里などなどの高層木造建造物の遺物が並んでいます。また、出石町や玄海灘沿岸にはアメノヒボコの痕跡も多く、さらに多氏大生部と伊福部の石碑・神社もあります。そして同様な高層の楼閣の描かれた土器片が大和の唐古・鍵遺跡から出ています。かわかつはこれはのちに物部氏が取り込んで行く「日本海製鉄文化圏」=みしはせの痕跡ではなかったかと考えています。

五行の器という言葉をご存知でしょうか?
これは朝廷の条例として出された「国郡はみな五行の器を作れ」という命令からきたいわゆる献上品の規定で、そのうちわけは木を切る斧、火を扱う金バサミ、土を耕すクワ、精錬用のルツボ、水を入れる桶・土器の五つです。桶以外はみな金属製品ですし、これは陰陽五行にそった指示なのです。ですから東国の常陸国の国司ウネメの朝臣という人がカヌチの佐備大麿を率いて、鹿島の若松の浜の砂鉄をとって剣を作ったという記事からウネメの朝臣が東国製鉄のはじまりと言われてきたのは、もともと国司たちが鉄製品を作る義務が生じたためなのです。

同じ常陸国の行方郡には壬生連麿という人物が治水工事をし郡を開発したことが書かれています。この壬生という氏族はもともと古代の朱沙採集民でしたから水銀などの鉱物採集も得意にしており、そこには土木技術に共通する技術を持った氏族がいたことがわかります。
ですから鹿島を藤原氏が大切にしたのは主に北国蝦夷の国境警備もありましたが、一番重要だったのはやはり鉄があったからなのです。ですから大和の石上神宮や香取神宮にも展示されている物部の剣=鉄こそ藤原氏が一番ほしかったものなのでしょう。蘇我氏が引き継いだ守屋の武器を最も欲しかったのは、ですから実際は藤原鎌足だったのかもしれません。

こうして鉄のシルクロードを追いかけてまいりましたが、これだけでも鉄の工法がつたわるルートがいくつもあって、すくなくとも三種類の人種が来訪したのだろうという推測もなりたつわけなのです。この新論説集の目的は実は日本人はどこから来たのか?を追求するために始めたのです。それはかわかつのブログ「民族学伝承ひろいあげ辞典」もまったく同じですし、It's かわかつ Wold !!もそうです。


かわかつにとって鉄のシルクロードは日本人の来た道を探す補助線のひとつに過ぎないのです。


2007年3月19日かわかつ

参考資料 
『続鉄の文化史 日本の軌跡と東西の邂逅』新日本製鉄広報室編集所収、福田豊彦『八〜十世紀、地方の時代開幕期の鉄』 網野善彦『日本中世の製鉄と鉄器生産』 窪田蔵郎『ヒッタイト王国を築いた鉄』
『アフリカクシュ王国の鉄』『スペインのカタラン製鉄法と日本』 佐々木稔『ローマの釘』

ヴィレム・フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史と文化』
星野之宣『宗像教授異考録3神在月』

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