●○●これから歴史を学ぶ人はすべてを見直すことが必要だ。そこで順を追って弥生時代、氏族、古墳などを調べ直してみましょう!!



●鍛冶具副葬古墳の分布とその内容


弥生時代の鍛冶工房分布図

村上恭通『倭人と鉄の考古学』青木書店から転写

弥生時代中期、後期を通じて鍛冶技術が九州西部に集中していることがわかる。
これは大陸に近いという立地的な理由以外に、九州北西部に特に鉄器を欲する武力集団がいちはやく出現し、大国家を作っていたことの証となる。
それがいずれも筑紫君、火の君,火の中君たちの本拠に近いこともわかる。

東国の房総地域にいくつか点在が見られるのは、4〜5世紀になって朝廷の範囲がこの東国にまで及んでいく以前の事実であり、それがやがて大和朝廷の欲するところとなったことと無縁ではないことがわかる。もちろん雄略以前から、河内王朝がはやくも東国を手中にしていったことがここにはっきりと表されている。

吉備地方が弥生中期3〜4世紀の早い時期に、すでに鍛冶工房を失ったこともわかる。これは鉄鉱石鉱脈の枯渇という一面と、河内王朝の侵略の早さとを示している。

すなわち鉄の加工技術もまた、出雲と同様奪われていった。

そしてさらに言えることは、出雲の砂鉄を表現する記紀のスサノウ神話は、この地図を見る限り、弥生時代のできごとではなく、ずっと新しい記紀成立前夜の?ころの、きわめて耳に新しい出来事であった可能性を示すことにならないだろうか?すなわち弥生時代の出雲には製鉄工房はなく、それは砂鉄によるたたら製鉄が現れる時代の少し前に弥生中期には銅鐸氏族の残存がまだ出雲にはあって、それがスサノウという製鉄氏族に牛耳られたという話になるのかも知れないのである。

銅鐸をもし出雲意宇地方の土師氏たちが持っていた技術とすれば、それを鉄によって追いやった氏族とはスサノウを氏神とする・・・物部?蘇我?継体?出石?

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●椿井大塚山古墳の鉄副葬品と邪馬台国の鏡は一致しない

鍛冶具副葬古墳の分布図

いわゆる三角縁神獣鏡と重要な製鉄器具は同居しない。
鉄鋏などの、鍛冶工房を持った氏族の墓からは中国鏡が出る。
そしてその時代は弥生後期、終末期。

すなわち卑弥呼の時代である。
しかるに三角縁神獣鏡と弥生後期、終末期にあった邪馬台国はリンクしないと言えるかも知れない。

ごらんのように椿井大塚山古墳からは製鉄・鍛冶の実用的道具としての鉄器は見あたらない。かわりに実用性のない巨大化した鉄器が出てくる。
全く時代が一致しない鏡だということがわかる。

村上恭通『倭人と鉄の考古学』より

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●縄文人でも鉄が作れた?



サラワク族の鍛冶風景 1920年撮影
村上恭通『倭人と鉄の考古学』から

彼らがどこからこの技術を知ったかについてこの著書には記載がないのであるが、彼らにできるなら、日本人ももっと古くから知っていた可能性がないとは言えなくなる。

現実には中国北部から鍛冶技術が渡ってくるのは弥生中期である。今のところ最古の遺跡は北部九州のその時代のもののみ。

製鉄技術と鉄加工品はどちらも次第に簡略化してゆく。
だんだん手慣れてきて、エキスパートになってゆくと、こつをつかんでいったのだろう。
これが古墳時代に入ると、より洗練と高度な均一化を実現してゆく。
ただし、古墳に埋葬された鏃などは、実用性はなくなり、均一ではあるが肥大化してゆく。要するに埋葬用の威信第一主義の呪物としての鉄器というものが現れた。立体的な甲冑、馬具なども、おそらく実用性はなく、呪物としてのレプリカに過ぎない。
実用的鉄器は鋭利で軽いものに洗練され、十分均一化し、大いに働いたことだろう。

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以上の二点の報告を読むと、一般人に、いかに「常識のうそ」が定着し、それによって固定化した過ちをもたされて歴史を推理してきたかが、いともかんたんに表明し、常識が瓦解することがわかる。
HP制作者諸氏もかわかつも早速、古い記事を書き換えねばなるまい。
日進月歩の考古学だろうが、いったいその新たな発見を我々にどうやって簡明な言語で伝えてくれるようになるのか・・・森浩一のように縦書きの著書でわかりやすく、報告書的でなく、理科系至上主義的でなく、誰が伝えてくれるのだろうか。

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○●つまり九州でも大和でも考古学の見直しがすでに始まっている

○●まずは大和の「常識」から見直して行こう !

●奈良盆地の地理的評価

「(前略)奈良盆地の地理的評価に関しては(中略)、弥生時代後期から終末期にかけての近畿諸地域と東海・関東地方にみる広域的一体性である。また近畿諸地域における物流の拠点はどこにあったのかについての究明も不可欠である。この問題に関し、近畿各地の外来土器の搬入状況を整理した山田隆一氏は、弥生終末期から古墳時代の初頭における瀬戸内諸地域との物流の拠点として、大阪府下の中河内諸遺跡群を最有力候補にあげる〔山田1994〕。

 こうした経済的背景をも考慮すれば、まず近畿地域の位置は列島の東側世界における西端の一角として把握されるべきことになり、次に河内平野の位置は、そのなかにあって瀬戸内諸勢力や北部九州勢力との交流の門戸としての役割を想定することも許されるであろう。

 これらの側面をも併せて考えるならば、倭国王の所在地として奈良盆地が選択された理由は一層鮮明になる。王権の中核を担った諸勢力の背後に位置し、かつ東側世界との結びつきをも表現できる好適地として、奈良盆地が選ばれたことになる。」
『前方後円墳と倭王権』北條芳隆(「古墳時代像を見なおす 成立過程と社会変革」青木書店所収)


●前方後円墳の伝播震源地は奈良ではない

「しかし「纏向型前方後円墳」として一括された諸資料を単一の様式のもとに把握できるかどうかについては否定的な証拠があまりにそろいすぎている。前方部の長さや形態には多様性が顕著で、指標として提示された後円部径の半分の長さになるものは一部にかぎられる。また立地の志向性や築成についても、近畿以東では平野部の立地を基本とし、方形周溝墓との共通性が顕著に見られるいっぽう、近畿以西では丘陵上に立地することが基本で、墳丘の裾部に列石をめぐらす事例が多く、なかには積石塚も認められるなど、多様である。埋葬施設についても、木棺直葬あり、竪穴式石槨ありといったありさまで、とうていひとまとめにはできない。(中略)
 さらに、「纏向型前方後円墳」の各地への波及が畿内地域を震源地とするという一般的な評価についても、それを積極的に支持する物的証拠はみあたらないというのが実状である。(中略)纏向石塚古墳の築造年代が箸墓古墳と同時代と指摘されるにいたった現状や、東部瀬戸内地域の事例には年代的にもっとも先行するものが複数確認されている事例をみれば、この点は疑う余地がない。むしろ震源地は中部および東部瀬戸内南北両岸地域に比定するほうが整合的である。」

前出北條論説から

「(纏向型前方後円墳を含むこれらの資料を総括すると)それは巨大前方後円墳の誕生に一部先行しつつ各地に築かれた前方後円墳および前方後方墳で、地域ごとに弥生墓の伝統をさまざまな要素において保持するために、立地や墳丘構築法、埋葬施設や副葬品の組成には多様性が認められ、巨大前方後円墳の誕生以後も一定期間継続し、個別地域内部で様式化することもある墳丘墓の総称であると。
 ここで強調しておきたいのは、これらの資料群が箸墓古墳を起点とする巨大前方後円墳の系列上には位置しない点である。(中略)要するにこれらの事例は、箸墓古墳の築造を起点とした影響の授受関係では把握しえないことが考古学的に証明されつつある資料群だと理解される。」

(前出北條論説から)

●纏向型前方後円墳の今日的評価

このように過去、小林行雄、佐原真、都出比呂志たちが熱心に説いてきた「畿内中心主義」という誤った古い、呪縛を受けてきたアンチ考古学的恣意的論説のすべては今、見直しを迫られている。
邪馬台国論争にしても、三角縁神獣鏡の呪縛から解き放たれねば正当の科学的考察は無理なのである。
われわれはウソで固められた前世紀の理論の渦の中に放り出された推理作家に過ぎなかった。
九州の考古学者がいくらその独自性を説いても、頑迷な大和論者と、それに迎合するマスコミ、歴史好事家たちはまったく耳を傾けようとしなかったツケが、これから徐々に逆転してゆくことになるだろう。
後漢鏡がどう考えても卑弥呼の時代に合致する副葬物であるにもかかわらず、彼らは無視し、どうしても「先に大和あり」の固定観念から逃れようとせず、誤った理論を読者に提示し続けてきたのである。

箸墓が前方後円墳にとって画期的建造物であることは否定できない。しかし、だからといって、すでにホケノ山などの、箸墓と同年代、あるいはともすればそれよりももっと古い瀬戸内の同型古墳の可能性が言われている現代、箸墓からすべてが始まる的論理になんの価値もない。
大和地方の前方後円墳は確かに箸墓を契機として大きく変化しただろう。ところが地方においては、そのようなものは長期的になんの影響もなく、過去の様式のママ続けられたのである。
そして箸墓の外観からは、九州〜吉備〜河内の「古い」呪術広場的構成が持ち込まれ、その労働力は東国から持ち込まれ、要するに大和にとって「捨て置けなかった」強力な地方豪族たちの集合と合体を、「むしろ大和の方が受け入れざるを得なかった」というのが真実なのである。

●すなわち今やらねばならないことは古墳考古学を問い直す ということ

「以上のように概観してみると、大和や畿内勢力の主導性を前提として議論を展開すること自体を問いなおすことが、じつは最大の懸案であることに気がつく。すなわち、いま問われているのは、前方後円墳成立以後の展開過程によって、それ以前を遡及的に類推するといった基本的視座に蓋然性があるのかどうかである。完成形が畿内の圧倒的優位を示しているのだから、そのような優位性は弥生文化の段階で確立されていたに違いない。北部九州勢力が一見優位にみえることはあっても、実際は畿内勢力が優位であったことn裏返しの現象にあったに違いないとの想定から出発し、資料的な裏づけを求めて検索を続けてきた結果、それがたどれないという情勢があきらかになった現在では、こうした基本認識を克服すべき時期にきていると結論づけるのが妥当である。」
(前出北條理論)

「(中略)したがって、巨大前方後円墳の築造という事実からは、大和勢力の主導という結論を導けないのはもちろん、背後に大和勢力の政治的優位があったとの命題も類推不可能である。同様に北部九州勢力東遷説も吉備勢力の東遷説も、いずれも成立する余地はない。
 このような資料的状況において、大和の優位性を認める根拠はどこにあるのだろうか。余分な固定観念を除いてみれば、否定的ないし判断不能な要素しか存在しないというのが実状である。」

「また鏡の問題についても(中略)ここから(三角縁神獣鏡の分配)弥生時代における大和勢力の主導性や優位性を導くためには、最低限の必要条件として、畿内地域における鏡の副葬行為の先行性が立証されなければならない。畿内地域の弥生墳丘墓において鏡の副葬配置や鏡種のとりあつかいが確立し、近隣地帯にまず配布され、埋葬祭で共有されたよいうたぐいの事実が確認された時点で、それは果たされることになるであろうが、実際はそうなっていない。近畿地方において鏡の副葬行為が確認できるのは弥生終末期の庄内式期であり、東部瀬戸内地域よりも遅れるのである。」

「まして遺骸の頭部から胸部にかけての上半身を複数面の鏡で囲む配置形態であるとか。頭部上方と足部下方に鏡を置き分けるといった鏡の配置原則は、北部九州地域の甕棺墓における鏡の配列や福岡県平原方形周溝墓との類似性を仮に無視するとしても、畿内地域では前方後円墳の成立をまってはじめて現れ、広域運動的にひろがる現象である。」(前出北條理論)


●すべての説は白紙に戻れ

このように弥生時代には大和の優位性などみじんも考えられない。
古墳時代直前になって初めて、にわかに、そうなるのである。
これはつまり、大和の外からの「強制的」あるいは「歓迎的」招聘があって、各地の文化を「大和が受け入れて」初めて可能になると考えてさしつかえない例証である。
突如として大和が富国強兵したというような証拠も一切ないのであるし、そんなことは不可能であろう。


●○手始めに古代の製鉄の開始から始めてみよう!


●灌漑を含む本格的技術を備えた稲作と鉄器の発達

「水稲耕作を維持するためには、水田のみならず、その経営に関与する諸道具の存在がきわめて重要であり、その(諸道具の)生産・供給も意図的に維持ないしは向上しなければならない。そのために人、組織、体制をつくることも求められた。」

(効率のよい生産工具と農業は不可分。その道具ををいかに「自力で」獲得できるかいかんにかかっていた。その工具の中でも金属器機、特に弥生時代には鉄器が重要だと歴史学者の間でもこれまでも考えられてきた。「唯物史観の洗礼を受けた戦後の弥生文化研究において、このことは疑われることはなかった、ところが・・・)

「しかしこの必須条件が当時、真に実現しえたのか否か、じつは十分に問われてはこなかった。仮にそれが問われた場合でも、鉄器の斉一的(せいいつてき)普及が指示されてきたように、列島各地の希求はあまねく実現されていたような錯覚に陥っていた。」

(簡単に言うなら、これまでの学者たちは、発掘資料による緻密な判断ではなく、漠然と、はじめから近畿を含めた全地域で、鉄器が発展する時間があったのだと思い込んでいた。ところが現実にはそうではなく、九州北部の圧倒的な最新技術は近畿にはそのまま伝播しておらず、太平洋側から東国、日本海側から若狭、及び瀬戸内海では吉備あたりでストップしていた。発掘であきらかになった弥生時代の鍛冶工房は、第一段階が最も複雑な構造で、次第に簡略化されてゆき、第一段階の最も高度な技術は、せいぜい徳島あたりまでしか行き渡らず、簡略化されたそまつな工房がむしろ細々と伝えられただけだった。それはなぜか?)

「(鉄器分析は手工業生産・分業という経済学的見地から非常に期待されてきたにも関わらず)資料が充実化をはjめる高度成長期を目前にし、一部の実証的研究を除いて低調で、いわば”思考停止状態”に陥っている」
村上恭通『鉄器生産・流通と社会変革』(前出書第2章所収)

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考古学はある程度の発掘サンプルがそろわなければ、仮説が立てられないという宿命にある。我々が権威だと思っていた既存の著名な考古学者たちは現代の、資料があふれている時代には間に合わなかったのである。従って、われわれは今すぐにでも、過去の権威的考古学者から知らされた固定観念を、一度そっちへ置いておき、若い考古学者の新しい見解と情報に傾聴する必要があるだろう。

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北部九州の最新技術が西へ伝播しなかった理由は、朝鮮半島における争乱が起因する。
これまで大陸に最も近い場所で「ほしいままに加耶の鉄を採集していた」(魏志・東夷伝)北部九州倭国は、弥生時代終末期になると半島情勢が悪化するに伴い、次第に鉄材料の入手が困難になっていった。つまり原料が枯渇して、まっとうな製鉄工房で造るほどの原料に窮したことが、仕方なくリサイクル、または南九州周辺の自前の鉄材料を探すしかなく、鍛冶工房そのものが逆行して簡略化へと進んでいった理由の一つである。

さらに、それまで太平洋側の東国房総地区、日本海側の出雲、若狭、古志諸国が大量の交換物資を貢いでほしがった北部九州や中九州の鉄加工品は、容易に手に入らないブランド品になっていったと思われる。弥生時代には大量の水晶加工品、当時最も高級な翡翠の優品が北部・中九州(福岡県の筑後と熊本県の有明海北部沿岸)から大量に発掘されている。
これらはみな、すすんだ鉄製品との交換に九州に持ち込まれたのである。しかし、この中に近畿、特に大和地方からの産物は見あたらない。要するに畿内には弥生後期までの時点で、鉄を欲する氏族はいなかった、あるいは欲しくとも交換に値する産物を作り出すだけの経済力は見あたらないのである。記紀が書き記すところの長髄彦などの比較的文化の遅れた縄文系?の土豪の群れがいるだけだったと言えようか。いや、正確には大和は巫女が支配する原始的祭祀国家だったと言えないだろうか


●弥生時代の流通と北部九州にプレ国家があったこと

縄文時代の物流はその後の弥生時代にもそのまま受け継がれた。

まず、九州北西部・・・長崎県五島列島周辺部からは巻き貝購入ルートがあったことが知られている。これを南西島交易ルートと呼ぶことにする。
呪物としての巻き貝加工品は南東から彼らによって運ばれ、一度、北部九州地域のフィルターを通して東へ運ばれた。要するに北部九州が問屋、中間マージン接種の役割を果たす大都市機能を持っていたのである。これは石器・土器などの他の最新加工品・技術においてもまったく同じである。
そして北部九州からの貿易ルートは、縄文から弥生後期に至るまで、有明海から東シナ海を北上し、日本海へぬけるコース、および南下して薩摩半島を回って北上する太平洋ルートであった。当時の遺跡(山陰の轟遺跡、鹿児島の上野原遺跡、青森の三内丸山遺跡など)からの発掘を見ればはっきりと、列島の中心部を避けるように、日本海側諸国、北陸、東北、房総、土佐、日向、豊後方面の遺跡遺物の方が圧倒的に畿内にまさっている。瀬戸内ルートはマイナールートであったことになる。

瀬戸内から貢献してくるのは弥生に入ってから広島に九州式鍛冶工房が現れる時代・・・すなわち弥生中期以降となる。
吉備は自前の砂鉄鉱脈と鉄鉱石を持ち得た故に、一時的に非常に発展し、播磨を含む東瀬戸内と九州の文化交流は非常にこの地域を発展させる時期があった。ところが鉱脈の枯渇と前後して、九州がその門戸を閉ざすようになった。そのため吉備にとっては重大な局面を迎えることとなり、しかも近畿からも鉱脈奪取の逆転勢力が押し寄せることとなり、吉備王家は収縮、移動をやむなくされたのであろう。

吉備と、海を挟んだ対岸の四国讃岐も、同様に北部九州への貢献により、発展している。それはちょうど児島牛窓港を挟む位置関係にあり、しかも播磨明石海峡の狭い部分が急流によって東側社会と分断されていたことと関係がある。

瀬戸内ルートにはいくつもの難所がある。特に九州からは穴門の海峡および豊後水道を閉じてしまうと、東の人々は独自に外へ出られなくなるのである。だから九州が独自性を発揮するためには豊前、穴門、豊、伊予の諸国との協調は不可欠となる。また四国と和歌山の間に敢然と立ちふさがる熊野灘も当然、九州勢力にとって重要であった。
吉備と讃岐の海峡は、伊予の大三島と安芸の間にある瀬戸と並んでそれらの前門だったのである。これらの諸地域は、圧倒的な北部九州の先進文化の恩恵を受けながら発展した。ゆえにここには長く貿易船団が発達し、のちの「水軍」の基礎ができていったのである。

こうした中にあって、ぽっかりと空白地帯だった畿内には鉄器が出てこないのは当然の話である。
この時点で、畿内は、まだ最新の鉄器を買い付ける氏族は皆無だったと言うしかなくなる。
それが箸墓を契機として、突然のように鉄器の「古墳埋葬だけ」が出現する。鍛冶遺跡もない、資源もない近畿が選択できる道はひとつしかなかった。それは有利な立地・・・列島の中心にあって、東西貿易の中継ぎ港となる・・・経済立国となることである。そのときまず東西諸国にとって大事なのは静かな、広い港であった。河内には運良く縄文海進で深くえぐれ、しかも内陸まで通ずる大河・淀川を控える天下の台所大阪の基盤となる住之江の港があった。
したがって、畿内で最初に繁栄したのは河内・摂津、山城、近江であった。

しかし北部九州が門戸を閉ざすと、国内の流通バランスは当然のように混乱に陥った。しかも半島の血なまぐさい動きは、国家分裂、新興国の出現など九州ばかりでなく、列島そのものにも及ぶ危惧が生じてきた。畿内より西の各国は自然と内陸への移動をやむなくされるようになる。北部九州だけは、しかし最後まで独自性を保持しようとした痕跡がある。逃げようにもなにも、博多湾はすぐ目と鼻の先に半島を控えていた。つねに前哨地であった。ゆえに縄文の昔から、長きにわたって大陸との交渉に気を配り、政治的にも十分独立できる自信と自負があったのであろう。事実、のちの元寇にいたるまで、九州はつねに国家の防波堤であらんとし、なおかつその役目も十分すぎるほど果たしてきていると言える。その自信と自負の基盤こそが倭王帥升から邪馬台国時代を通して中国に貢献したきた歴史があったからなのであろう。

●鏡から鉄器へ・・・割られた鏡は分配のためだけとは限らない

北部九州の弥生中期前後の遺跡から出てくる金属加工物の中に特殊な時代を示す遺物がある。
この遺物は青銅製で、プレ鉄器時代の加工品である。
すなわち、これらの大量の遺物は銅鏡や銅鐸、銅剣などの青銅加工品・・・少し立つと鉄器もまた壊されて加工されている・・・を破壊して、分断し、それを違う利器に加工し直したものであると言う。
特に中国江南の金属加工技術が、中国政府の発掘により、江北よりも異常に発展しており、中でも青銅、鉄に関しては炭化物を極力廃した、純正品が発達していたことが、製品の強度を高くしていった反面、表面は柔らかく加工しやすくなっていたことが原因のひとつとなる。(村上恭通)

弥生中期には列島の先進地北部九州といえども、自前の鍛冶工房と鍛冶技術はなかったと思われ、こうした中国の製品を採り入れて、似て非なる加工品利器に応用する時代があったと言うことであり、その知識自体は、当然、現地に行って目にしてきたものからヒントを得て、まさに現代日本の明治以降の工業の開始同様に、見よう見まねで、しかしより使い勝手のよい加工品に応用していたこととなる。日本人が輸入品を模写すること原型をうわまわる力を見せて世界を圧倒した高度成長期そのままの姿が、すでにはるか古代から始まっていることが実に興味深い。

このことから導き出される事実は、邪馬台国が「好物」と中国皇帝に言われ下賜された鏡は、なんと、こうした破壊・加工用であったことが考えられることになるだろう。権威の象徴として配布されたと言われてきた鏡が、ここへ来てまったく別の用途で「好物」だったことが理解できたのである。

それがしかも溶かして再加工したのではなく、切り取って磨き上げたものだったということで、中国舶載鏡が畿内から出土しない理由もはっきりする。
なかったのである。
したがって自前で造るしかなかった。
江南の比較的新しい銅鏡である人物画像鏡を手に入れた大和は、そこから新しい鏡を作り出す。それが三角縁神獣鏡であろう。(森浩一)

近畿がつとに発展するかげに、継体大王がのちの時代に開発する湖北ルートがある。継体は近江から福井へ抜けてさらに百済へと、日本海ルートを逆行する鉄の道を開発していた。彼の存在価値はこうした財閥としての実力のたまものである部分もあった。
それは大和にとって、北部九州「王朝」によって封じられた大陸への新たなルートの開発のために、どうしても必要な勢力だったのであろう。
しかし、おそらく河内王朝は畿内にあっても、唯一、大阪湾を牛耳って九州との交流があった。継体はどうしても河内へ入れないままとなったことだろう。その河内の旧倭五王からの勢力が大和には根付いていたのだ。だからこそ継体はいつまでも大和には入れず、ウラのルートでしか半島と流通できないでいた。
政治家としてはひとつ何かが足りていないのである。
それが筑紫の君につけいれられる原因のひとつでもなかったか?

結局、筑紫に最後まで頭が上がらなかった継体は、大和の旧態勢力によって見切りをつけられたと見ていいだろう。それが「天皇の太子、皇子ともとどもにみまかりますと聞く」の記事に反映されていると見る。

こうして見ると雄略の時代、金銀象眼銘文入り鉄剣が列島の東西に、まるで畿内をあざ笑うかのように存在したことは実に象徴的で、雄略をモデルにしたと言われるヤマトタケルが、最後になって、東国で倒れ、伊勢のぼの、羽曳野、と後ろ髪を引かれるように西の空へ去ってゆくシーンに彼らの無念さがよく表されているのだと見える。
一世を風靡し、列島を騎馬の力で牛耳ったと思われていた安東将軍たち・・・実は上表文の内容は、あくまで空威張りだったのかも知れまい。

古墳時代に至っても、かつての先進国北部九州の存在は、大和にとって目の前の障壁であったのだ。だからこそ、裏切ってもなお、磐井は巨大古墳に眠ることができた。圧倒的な技術と財力と、そして中国との貢献の歴史が、新興国大和にはやがて征服せねばならぬかたきと映ってゆくことになったであろう。

いずれにせよ、古い唯物史観の呪縛から解き放たれた今後の考古学の前途は明るい。NHKが
継体大王のほぼ真実に近いものに迫る番組を造るようになったほど、新しい解釈はどんどん世間の人口に膾炙され始めている。これからこそが本当の日本史。本当の古代史が始まろうとしていると感じる。

●北部九州が門戸を閉めたもうひとつの理由

村上氏の意見に忠実に従うならば、弥生後期末葉から終末期にかけて、北部九州が門戸を閉めざるを得なかった理由はこうである。

「(弥生後期末葉)北部九州や中九州ではあらゆる生産工具、武器の鉄器化がほぼ完成した。高密度に分布する鍛冶工房が分業体制を形成し、鉄器生産の面でも集落間が有機的な関連をもって機能するようになった。その結果、北部九州を中心とする地域での鉄の消費量が前代に比べて増大化し、生産・流通の面でも分業体制の進展に呼応して、鉄素材の流通ネットワークや鍛冶工人の情報交換ネットワークがその範囲を自ら限定し、固定化を開始した。そうなると、北部九州の共同体や首長の意図にかかわらず、それまでに求めに応じて外部に供給できた鉄素材や技術はそのネットワークが閉鎖的になったことによって、外部から容易な獲得を許さない状況が生じてしまった。」

これを証明するのが、この時期から製品が急に貧弱化することである。

要するに需要と供給のバランスがとれなくなった専門技術者当人たちが情報と商品のこれ以上の漏洩を嫌い、にわかに秘密主義を取り始めたのである。なんとも示唆に富むことであるが、千数百年も前に、すでに「資源の枯渇」によるトラブルが始まっているのだ。これが人間のなりわいである。

簡単に言えば鎖国したのである。

したがってこれまで鉄の恩恵を得るために始まった貿易相手国は当然、最新技術を買えなくなる。
吉備も安芸も北陸も東国も、すべて進展がストップしたことになる。

だからこそ、九州はひとりこれを独占し、内需で発展する。

このことが中国地方から東の諸国が連帯する大きな契機ともなったと考えられる。九州の孤立が始まる。江戸時代で考えれば鎖国後は国内は一見、平穏で景気が上がったであろう。しかしながら他国はどうにかしてこれをこじ開けなければならない。あるいは別のルートでの氏族間連携が必要になり湖北北陸ルートはがぜん必要になる。また中国地方でも低山地を遡ってでも独自ルートが必要になったであろう。このことがかえって地域の工夫を生み出し、地域別ネットワークが発達したことだろう。

しかしながら当分の間は古い、きゅうたいぜんの技術で細々と存続するしかなかった。

大和を中心に古墳時代直前になると、各地がついに困窮し、北部九州との融和を図り始め、むしろ招待するかたちで北部九州の豪族たちを階級を与える形で懐柔し始める。

瀬戸内に無関係な東国、山陰では相変わらず細いパイプで九州とつながりがあったため、粗末な簡略な鍛冶工房が存続した。
その間、日本のどまんなかだけは右往左往せざるを得ず、結局、この時代までには大和にまったく鉄はなかったということになる。

懐柔策をとってとりあえず九州〜吉備の氏族を招聘し、階級をえさに形ばかりの大同団結をせねばならない大和には、その証として、吉備型の巨大古墳、九州型の祭祀形態が取り込まれた「九州王朝礼賛」の象徴である前方後円墳が造られたのではなかろうか?メモリアルである。これは空想である。

考えてみれば、閉ざした門戸を、もし、他国が攻めてきた場合に北部九州がおそれをなして開いた場合、どうなるであろう?大和はそう考えたのではなかろうか?
それは考えるだけで恐ろしい事態である。懐柔策しかなく、九州の豪族を倭王として迎えた可能性すら出てくるわけである。


●○歴史学の変化に鈍感な研究者は今でもたくさんいる。例えばC14や年輪年代法などの理化学的アプローチを自分に都合の良いもは受け入れ、そうでなければ徹底比定する以下のようなケース


●炭素14 年代測定法と考古学

「炭素14年代測定法については、国立歴史民俗博物館の研究グループからつぎつぎと新たな測定値が報告されているが、それを信じない研究者、慎重に対応すべきだという研究者が存在する。また、測定資料や方法(*1 海洋リザーバー効果や *2 ウイグルマッチングなど)についての疑義や、鉄器や青銅武器の年代的齟齬(行き違い・かわかつ)などをめぐっての批判もある。それらについては、反論などもふくめて数冊の書籍が公刊されている〔国立民俗博物館編2003、広瀬・小路田編2003,金関ほか2004,春成・今村編2004、西本編2006,秋山2006、春成2006など〕から、詳細はそれらに譲りたい。ただ、この問題の本質は考古学の方法では不可能な時代の実年代を、炭素14年代法のような理化学的方法に依拠しなければ、どのようにして判定するのか、というところにある。

炭素14年代測定法に反対する考古学研究者は、旧石器時代や縄文時代の年代が必要なときはどうするのか。他者から問われたときどのように応えるのか。(中略)

 日本考古学では、鏡のように、暦年代のわかっている中国文物を用いて弥生時代の実年代が推定されてきた。

(相対編年法・科学的、精査的とは呼べない歴史的、主観的決定法。土器などの派生の時代の前後関係だけで決めてしまう方法。かわかつ)(中略)

 *3留意したいのは、年輪年代法〔奈良国立文化財団研究所1990・光谷2000・光谷・大河内2006など〕と炭素年代法という異なった方法の測定値がほぼ合致する事実である。」
広瀬和雄編『歴博フォーラム 弥生時代はどう変わるか〔炭素14年代と新しい古代像を求めて〕』学生社 2007年3月

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注釈
*1海洋リザーバー効果 大気は炭素の貯留槽であるから、そこから炭素14を検出できる。→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/39455938.html

*2ウイグルマッチング  要するに年輪年代測定値と一致する数値という意味。この言葉そのものに対する適切な説明サイトは今のところなしと判断した。あいかわらずの言葉先にありきという理科系馬鹿の悪い癖。というか、説明したらわけがわからない念仏しか言い出せない応用力に乏しい、用語を一般的簡明な言葉に置き換えることが苦手な人々が使う専門用語である。文科省サイトもあるが例によって日本語とは思えないキテレツ怪文書ゆえ文化系は見ない方がよかろう。→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/39455902.html

*3
 弥生時代前期後半は・・・年輪年代法=紀元前445〜448から(実際には50年ほど加算・すなわち前5世紀後半)
                 C14測定法=紀元前5前半〜6末から
 島根県出雲大社旧本殿柱材の推定伐採年代・・・年輪=1227
                               C14=1228±13
        (資料・広瀬)
 つまりウイグルマッチングしているということである。以上*印解説は文化系のかわかつ

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ところがである。
これらのウイグルマッチング測定資料の中で、ある数値に対して、実に日本アカデミズム的反応が起きているものがある。
それは、大阪府池上曽根遺跡の柱材の年輪年代想定値に対してである。
すでにご存じかも知れないが、ここのサンプル木材からは前52年という年代が検出された。これが弥生中期末であることは中国鏡などから想定された北部九州における相対編年と合致するためスムーズに学会で認知されたのだが、弥生前期後半を紀元前445年とする測定値に対してはまったく無視され続けた。「古すぎる」といのである。

「一貫した方法で、いわば同一の「物差し」で測定された複数の年代を、一方は採用するが他方はなおざりに付すという「いいとこどり」の姿勢は、当然ながら研究者のとるべき態度ではない〔片岡2003〕。他分野の学問に向けられた考古学研究者のこうした心性は、いつごろから形成されてきたのだろうか。それ自体が興味深いテーマであるが(中略)そうした傾向は考古学の孤立化への危険性の高まりと平行していると・・・」(前出同著・広瀬)

簡単に言うならば、学者というものは、いや人間というものは概してそうしたもので、シロアリと同様「白い巨塔」という名の蟻塚を造りたがるようだと広瀬は言いたいのだろう。


●しかし2005年、弥生時代開始は500年早まった!!  大和学派の変容

考古学者の世代交替が進む中で、C14年代測定法は疑いのないデータをはじき出すという「事実」が広まるにつれ、縄文、弥生時代の始まりと、稲作開始はこれまでの通説より相当早くなった。今や定説はことごとく覆されていることは間違いない。科学は真実しか伝えない。

縄文時代の開始はこれまでより4500年早くなった。現在の所、言われているのは16500年ほど前まで遡るとされる。

弥生時代早期は500年も早まり、北部九州でBC945年くらいから。
前期は通説をはるかに上回って460年早くなった。BC810年ほどから。
中期がBC350から。
近畿南部では早期はなくて、前期がBC700。中期がBC4〜500年とされる。
北部九州と近畿南部の年代格差は100年弱で、時代が下がるにつれ間隔は次第に短くなるのはわかるが、これは少し間隔が狭すぎる気もする。

陸稲による縄文の稲の畑作開始は北部九州でBC約5000年、近畿まで来るのがBC4500年。だいたい500年の格差。

水田開始は、最も早い北部九州で紀元前1000年くらいから。つまり弥生が始まってすぐに水田耕作が北西部九州に伝わる。中国南東部から九州北西部(長崎県菜畑)に入って、わずか100年でまたたくまに近畿へ伝わった。

縄文と弥生の間にこれまで言われてきたような隔絶はなくなり、ほぼ文化が混在しながらゆっくりと弥生へと変化していった。縄文人が狩猟に依拠する蛮族という古いイメージは完全に消え去ったといっていい。
かつ、弥生文化が縄文文化を駆逐したというイメージも消えてなくなった。
両文化はたがいにスライドしながら融合と混血を繰り返し、交替はスムーズな曲線を描いて変化した。

水耕稲作は中国東岸から伝播。
これまでの半島経由説は消えてしまった。
運搬は海の民であることも定説化。
主な担い手はわれわれ民俗学に傾倒する者たちが言ってきたとおり長崎県五島や有明海沿岸の海人族と中国の白水郎たちの交流によるものであることがほぼ定説となった。

「初期生産経済を見直す必要がある。『水田稲作を持った南部朝鮮からの渡来文化が席巻した』は生産経済の優位さ、もしくは生産力が社会を発展させていくという、発展段階論的イデオロギーに支えられていた〔広瀬2003〕。ところが、実際には水田稲作の拡大力は従来考えられてきたほど強力ではなかった蓋然性が高い。日本列島での開始から数百年かけて緩慢に、列島各地に普及・定着していったのが実情のようだ。」
〔前出著書・広瀬論説〕以上要約はかわかつ。

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このブログで先に検討した鉄器発掘などの若手学者たちは、実は九州で教鞭をとるなど、九州に傾倒しているのでは?と言われても仕方がない方々であったが・・・
広瀬和雄は文献歴史学のベテランで、京都生まれ。同志社大学卒ののち奈良女子大大学院教授を経て現在、国立歴史民俗博物館教授という、いわば生粋の大和学派である。
その彼が、文献史学、文化人類学という、これまでなら大和主流説にガチガチになってもおかしくない立場にあって、しかも年齢も1947年生まれと決して若くはない大ベテランでありながらこのように新しい科学を受け入れ、日々学習し、常に定説を疑ってかかる気概を持ち得ていることを高く評価すべきである。

これから彼の同僚の春成秀爾氏の論説も検証していくが、同じくこれまでの学説・定説を、彼も一度置いてしまって、若い理化学者たちの検証を受け入れようとしているものの、やや未だに控えめな表現でひっかかりを持っている部分を見せているのと比べても、実にはっきりと自分の説を反省の机上に持ち出してまで見直しを告白しているのは非常に好ましく感じた。これは今年の三月に出版されたもっとも新しい大和学派の意見であることを述べておく。
すでに学究に県境も地域の格差もないことに気がつく。時代は明確に変わってゆく。(かわかつ)

この著書の共著者
春成秀爾・佐藤洋一郎・宮本一夫・山崎純男・禰宜田佳男・小林青樹・ほか6名。編集・広瀬和雄
2007年最新版
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参考文献『弥生時代はどう変わるか【炭素14年代と新しい古代像を求めて】』学生社


●弥生文化は半島ではなく中国海岸部から海人が運んだ? 豚飼育

「炭素年代法によると、弥生前期は前八〜前四世紀までの四〇〇年間余りの長さにわたっている。中国の春秋時代のことである。しかし、その間、中国、朝鮮半島との交流がさかんであったという考古学的証拠は少ない。しかし、(しかしを二回重複させる。こういう表現が科学的?文学部の人間にはわからない使用法)、人骨に渡来系の形質がつよく現れるのはこの時期からであり、また抜歯の習俗に大陸系が現れるのもこの時期である。豚が出現するのは、弥生早期のことであるが、朝鮮半島では豚の飼育は現状では紀元後四世紀にならないと確認できない。豚の下顎骨を棒や紐にかける習俗も朝鮮半島では知られていない。それらが朝鮮半島から伝来したものでないとすれば、中国の東岸あたりの同時期の文化との比較が必要である。人骨の形質が大きく変化していることは人の渡来が少なくなかったということであろう。」
春成秀爾『大陸文化と弥生時代の実年代』前出『弥生時代はどうか変わるか』第一章

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はじめに言っておきたいのは、ふたつ。
まずこの学者の「比較が必要である」という表現はこの論説の中で何回か出てくる。しかし読む側にとってそれでは不満である。こちらは答えが欲しいのであって、「必要」と感じたのならちゃんと調べた上で論を完成して欲しかった。あとに譲るということだとは思うが、学校の先生的なヒントに終始するなら論文とは言えまい。
ふたつめは古い学者や文学者のような婉曲的言い回しが気になる。決して自分の意見を明確にしない表現方法は誤解をまねく。
まだこの学者は昔をひきずっている。
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それはさておき、弥生文化の朝鮮半島経由説は次第に見直さねばならなくなったようだ。
古墳分析でもいずれ書こうと思うのだが、半島の百済海岸部から内陸部にかけて前方後円墳が存在することはすでに述べている。
以前は列島の文化はなんでも半島経由だと考えられていたが、それは、おそらくだが、半島の学者たちの意見を鵜呑みにしたからではないか?むしろ現代の学問では、さまざまの面で、半島より西にある北西部九州のほうが中国からの先着は早いという見方のほうが適切ではないだろうか。
そのとおり、日韓の共同調査でも、今は、日本で出版する彼岸の学者の意見はそう書かれているものがある。
ただし同じ本が、あちらではどう書かれているかはわからない。日本もまた過去、そういう内弁慶な学説が横行した。けして彼岸を揶揄できないのだが。

なにより豚の飼育に関しては考古学的に発掘がなされており、それらが猪よりも現在の豚に近いことがわかっており、弥生の早い時期、あるいは地域によっては縄文晩期から飼育、品種改良のあったことの決め手になっている。それが半島にはいまだに見つかっていないということは、現時点では、この技術は半島よりも先に列島に届いたことの証となる。
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 【用語解説】鉛同位体比法

融点が低く、製錬しやすい鉛は古くから世界各地で用いられてきた。質量により4種の同位体があり、その比率が鉱山によって微妙に異なるため産地の推定が可能となる。青銅器の場合は複数の金属が混合使用されるため判定が難しいとされてきたが近年、形状が異なる青銅器の同時生産の可能性や、似た青銅器の生産時期の違いなどの判定に威力を発揮、測定事例が増えている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071202-00000904-san-soci

 【北京3日時事】中国浙江省の杭州市郊外にある「良渚文化」遺跡から、少なくとも4300年以上前のものとみられる古城(古代都市)跡が見つかった。専門家は、甲骨文字の出土で知られる河南省安陽の殷墟(いんきょ)に劣らない考古学的意義を持つと指摘。「中国最古の王朝がここに存在した可能性がある」との声も出ている。共産党機関紙・人民日報が3日報じた。
 「良渚古城」は東西1.5〜1.7キロ、南北1.8〜1.9キロ。総面積約290万平方メートルで、サッカー競技場400個分の広さ。これまで発掘された同時代の遺跡として最大規模という。周囲に巡らされていた城壁跡も見つかった。
 元故宮博物院長の考古学者、張忠培氏は「古城の発見は良渚文化が既に文明社会に入っていたことを証明する。墓地調査などから、複雑な社会階層を備えていたことが判明した」と指摘。浙江省文物考古研究所の劉斌氏は「良渚古国」があった可能性が高いと述べた。
 ■空白期の謎、弥生年代論争に一石?


●縄文人は船で大陸と行き来できた!

縄文後期後葉から九州の祭祀に使われ始めた勾玉やくが玉の原型はそれまでの縄文社会には見いだせない。「突然にこうした装身具が生まれたとするよりは、その背景に何らかの原型があったと解釈すべきである。その意味では、この段階に勾玉や管玉は無文土器社会に存在しているのである。これら九州縄文社会に認められる装身具は、半島の無文土器社会の装身具に全身があり、こうした装身具の存在を縄文人は”漁撈活動を介して情報収集していた”のである。」
宮本一夫『中国・朝鮮半島の稲作文化と弥生の始まり』前出広瀬編著第三章  ””は、かわかつ

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わかること

1 縄文人は漁撈に用いる小舟で半島と行き来できていた。
2 玉の文化は半島からきた。

宮本氏は九大人文科学研究院在籍。
意見はそれぞれまちまちだが、玉は半島から縄文時代に海人が「持ち帰った」ことが縄文人の能動性の点で重要であろう。
また、この研究者は、稲作も従来通り半島経由という説。

どれが正しいのか、ますます混迷するばかりだ。


●稲の南方系を見れば九州・加耶が先か ?

宮本一夫によれば、半島で早くから入っていた穀物はアワやキビといった寒冷地適応性の高い植物で、陸稲のような南方系植物は先に日本南部に入ったと見た方がよさそうである。
ところが水稲はどうかというと、弥生の温暖化時期に半島経由説を言う説がいまだにあるのと、いまひとつは中国南東部からのダイレクトな伝播説とが存在するようだ。半島経由ならば比較的あたたかい場所は加耶を中心とする半島南部だろう。中国ならば会稽東冶から。いずれにせよ、どちらにも倭人=海人、あるいは白水郎の伝承地である。
今のところふたつのルートが考えられる。

伝播の方法は、いずれも、九州北西部の海人族が能動的に持ち帰ったとする傾向にあるようだ。

これまでは中国あるいは半島からの「渡来」説が主体であったが、どうやら九州からの能動的行動が主流に成りつつある。
ということは文化導入に先だって九州海人たちの交流と貿易がすでにあったということである。

それが縄文後期の玉の輸入からすでに始まっていることは確認しておきたい。
いきなり水田耕作が始まったのではなく、またいきなり弥生時代が始まったのでもない。
縄文と弥生はつながっていると考えるのが最もあたりまえの解釈であろう。
考えてみればそんなことははじめから当然の話である。


●○いよいよ前方後円墳の起源だ!!

●韓国全羅南道の前方後円墳分布図



1 七岩里古墳
2 月桂1号墳
3 古城里古墳
4 月桂洞2号墳
5 月里古墳
6 月桂洞1号墳
7 明花洞古墳
8 新徳1号墳
9 咸平長鼓山古墳
10杓山古墳
11チャランポン古墳
12龍頭里古墳
13海南長鼓山古墳

この周辺の前方後円墳は倭系横穴石室を持ち、これを柳沢一男は「栄山江型石室」と呼んでる。これらは、柳沢によれば「北部九州型と肥後型横穴式石室を祖形とするものと、その発展型式からなるものに他ならない」としている。(以上、白石太一郎『近畿の古墳と古代史』学生社 2007年6)

●だけど半島の前方後円墳は古くなかった。

●前方後円墳の起源諸説

2006年現在で、列島にあって独特の形態を持つ前方後円墳が、どこを起源として始まったかnついての諸説を紹介する。

@外来説・・・・サンプルの少なかった時代の、文献や限られた知識で、史学者たちが推定した仮説。現在は全羅南道、光州に点在する前方後円墳は日本では前方後円墳時代の中期末から後期にかけて造成されたことがわかっており、百済に移り住んでいた倭人のものとされており、前方後円墳の形態を半島に求める説は否定されている。
また、馬王堆など中国南部に起源を求める説も現在は、形式に類似点がなく否定されている。

A九州起源説・・・戦後、皇国史観から完全に解き放たれたと見えていた学説は、一時的に九州東遷神話を完膚なきまでに捨てさり「大和起源」が当たり前的、反動的にすぎる極端な方向へ流される。福岡県在住の郷土史家だった原田大六はこの大和偏重を打破するため、一見戦前のレジウムの復古とさえ見られた神武東征=前方後円墳九州起源説を唱える。しかしながら九州の祭祀形態そのものに特にこの墳墓形態を生み出さねばならなかった要素がなく、論拠となった山陰、吉備の発掘の進展にともなって東方への征服移動はなかったとされた。

B大和起源説・・・九州でなければじゃあ大和だ・・・残念ながらその後の発掘結果からはそうはならない。これまで起源を箸中山古墳に求めてきた大和起源説であるが、大和そのものにもっと古い古墳が見つかり始め、しかも箸中山から発掘されたものよりもっと古い特殊器台や宮山型特殊壺がホケノ山や吉備から出てくるようになり、箸中山起源説は否定された。今は箸中山も最古の前方後円墳のひとつであるという認識のされかたになっている。ただし、源流と言えるような祭祀形態や特殊器台は纒向古墳群からも出ておらず、むしろ吉備に求める学説が広がってきている。


ただし、吉備の宮山型特殊壺は宮山古墳からしか出ておらず、サンプルとしては物足りない。
今ひとつ、装飾古墳の絵柄の中で独特の意匠を持つ直弧紋(ちょっこもん)の源流を吉備楯築遺跡周辺で伝世されてきた弧帯文石に求めたり、纒向遺跡出土の弧紋板に求め、またそれが大和で洗練され全国に広がるという推定から、吉備の祭祀形態や九州の彩色祭祀、四国、出雲、丹後などなどの形態を取り込んでまとめあげ、労働力を東国蝦夷や海人族に求めて、一致協力して完成していったという、ゆるやかな発展説が現在主流を占めるようになりそうだ。すなわち大和朝廷は連合国家として開始されたということになるだろう。これなら倭人伝の「女王共立」記述とも矛盾がない。

参考文献 近藤義郎『前方後円墳の起源を考える』青木書店 2005年
国立歴史民俗博物館編『装飾古墳が語るもの』1995年
『古代史発掘G 装飾古墳と模様』講談社 昭和49年

●○ではどこから始まったのか?

●近畿の大型前方後円墳の構成要素とその震源地一覧

        近畿の大型前方後円墳
               の構成要素       要素の震源地
●外槨・・・・・・墳丘                 東瀬戸内を中心とする列島各地
         段築                 不明
         葺石                 東瀬戸内
●内部主体・・竪穴式石槨             吉備・東瀬戸内
         排水施設              不明
         割竹形木棺             丹後・東瀬戸内
         北頭位(北枕)           中国
●副葬品・・・・朱・ベンガラ             魏、北部九州・東瀬戸内・東海
         三角縁神獣鏡            魏、近畿
         後漢鏡、倭鏡            中国、列島各地
         玉類                  不明、北部九州・北陸・山陰
         石製模造祭具            北部九州・山陰・北陸(東海)
         武器                  北部九州・丹後・瀬戸内
         武具                  不明(中国・朝鮮)
         工具                  北部九州・吉備、瀬戸内
●外表施設・・・墓壙上祭祀             東海・東瀬戸内
          白色円礫              東瀬戸内
          円筒埴輪              吉備
          壺形埴輪              東海
          特殊器台              吉備
100bクラスの近畿地方の前方後円墳に特徴的な構成要素の概略は以上のようである。
各要素と形式が、これまでの考古学的分析から想定可能な、もっとも先行した地域は以上のとおりである。
近畿に多い、前方後円墳の前哨的墳墓である方形周溝墓については、
朱、ベンガラでの丹塗りや後漢鏡の副葬などがすでに北部九州、四国、吉備で先行しており、近畿には見られない。
工具の副葬については、瀬戸内以西では5世紀初頭にすでにはじまっているのが、近畿では遅れて5世紀中葉から6世紀初頭。遅い墳墓では7世紀にかかることもある。
問題の奈良時代の薄葬令以降はどうかとなると、例えば9世紀頃の九州南部や東北に至る横穴古墳には、まだ装飾や丹塗りが行われており、中央からの指示が必ずしも達成されていなかったことが推定できる。

@5世紀に大和に「朝廷」があったという推定は成り立ちにくい。
A朝廷が大和独自の勢力によって成立するとは推定しにくい。
B大和朝廷が大和で成立し、力を持ち始めるのは少なくとも雄略以降で、継体以降に完了。
C従ってこのデータから3世紀の大和に大きな勢力はなかったとしか考えられない。
D前方後円墳は列島各地の勢力によって形成され、当初吉備で、次に河内で、雄略前後にようやく大和に入って確定したと考えられる。
Eゆえに前方後円墳を3世紀に押し上げる行為は間違いではないが、だからと言って、そこから3世紀に大和には強力な勢力があったと類推することになんら意味は見いだせない。

「では大和勢力は何をした形跡が残されているのであろうか。あきらかなのは土地の提供である。また可能性としては、被葬者としてここに眠る人物を崇拝し、その宗教的支配下に置かれていたことであろう。」北条芳隆『古墳時代の開始と社会変革』
箸中山古墳からは「大和在住の諸勢力」がこの人物を崇拝していたであろう証拠として、墳丘裾部から在地土器の群れが出土している。
なお、こういう書き方はまだかなり婉曲的な表現である。
この墓の人物は、大和在地勢力から見れば尊崇であろうけれど、それは言い換えると、そうでないよその地域の勢力から見れば、そうした埋葬のされ方は「忌む」「かむやらい」であろうかと、かわかつは思う。
すなわち、新体制にとってこの女性?は非常にアンチテーゼ的なヒロインだったと考えられないかと思うのである。

それが大和の祭祀を代表する人物であったことは間違いあるまい。けれどそれがなんという名前の人物であったかなど、かわかつにはどうでもよいことである。
大和は3世紀以降に、祭祀のメモリアルの象徴的地域として、全国の共同体が選んだ場所だったと言える。
それは自然派生的にそうなっていった。

●そこには「共立」のスピリットしか見えてこない。

●じゃあ、北部九州はどうなんだ?

●北部九州発掘資料からは国家的要素は見えてこない

近畿の5世紀までが、強力な勢力のそれ以前からの存続が見えなかったように、北部九州の3世紀からも強力なまとまった国家の存在は見えてこない。
それは吉備からも出雲からも東海からも同じである。

中九州、北部九州が一見、非常に進んだ地域であったことは鉄器、工具の早期からの取り入れた痕跡を見れば一目瞭然であるのに、しかし結果的に、そこから巨大な集合体が生まれていったと証明できる集落は、いまのところ見つかっていない。

集合のない、ばらばらの先進性なら山ほどある。
しかし、そこから5世紀にかけてさらに発展し、結合して大国家へと進化した痕跡がまったくないのである。

むしろ吉備、東瀬戸内の方が、一時的に、小さいながらまとまりを見せ、そこから播磨を通って河内へと移行していった可能性があるくらいである。これを吉備東遷説と言い、もっとも新しい考え方のひとつとしてクローズアップされてきている。

九州には筑紫国造家がある以外は、肥君も阿蘇君もよそものであるとしか見えない。唯一在地の勢力である海部には国境がなく、大伴氏によって牛耳られていた九州南部の在地隼人たちは山城へ移動しているし、熊襲は痕跡もなく解体されている。筑紫国造だけが君として勢力を存続してきた。しかし磐井の乱によって完全に中央の一部として歯車の中に組み込まれ、大伴氏は失政によって換骨奪胎されてしまう。
こうしてまとまりのないまま、九州は辺境の、過去の栄光に埋もれた島となったとしか思えない。残念ながら、その後、太宰府が海外貿易の迎賓館となった以外は、これといって興隆した気配は見えない。

国家形成は、大和一極へと集中して行かざるをえなくなる。
それは九州も含めた、すべての諸氏族が自ら選んだ方向だったと言えるだろう。

●○九州は1〜2世紀が絶頂期。ではあらためてそこを見てみよう!

●九州の一世紀・テクノポリス
技術国家といわれる一世紀の北部九州で、特にふたつの地域にだけ巨大な首長のめばえがあった。
ひとつは福岡県春日市、奴国の丘歴史公園内にある須玖岡本(すぐおかもと)遺跡、今ひとつは糸島半島前原市の三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡である。

おそらく日本最初の「王」がふたり、ここに眠っていると推定される。

●このふたりの王は、中国と交流があった。
●前漢時代の舶来品を多数輩出する墓に祀られた。
●とくに須玖岡本の首長は、中国の当時権威的な鏡である草葉文鏡(そうようもんきょう)をもらっている。
●一方三雲南小路の人物は中国から鏡を35面、金メッキ青銅製の棺金具をもらっている。
●この金具は木管用であるが、中国の有力者が用いるもので、当時は甕棺葬だったため使い方がなく、仕方なく副葬された。
●この二人以外に、当時のテクノポリス(最新技術都市)だった九州の大王クラスの人物は存在していない。
●ゆえにどちらかが金印をもらった奴国王であるが、それは糸島半島であった金印発見の、江戸時代の話が真実であるならば、奴国の丘・須玖岡本の草葉文鏡をもらった人物と断定可能である。

ここが弥生時代最初の国家の誕生地である。

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その前の紀元前4世紀頃、吉武高木にはすでに武器を持つ一軍が最古の王国、集落を形成していた。
ここが日本最古のプレ国家と呼べる弥生集落である。

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さらに、中国から日本に武器が届く最古の時代となると紀元前8〜7世紀と言われている。
現在の発掘からはそうなっている。今後の発掘次第ではもっと古い遺跡がでるかも知れないが、まずこれが今のところ決定している。

岡山大学准教授の松木武彦氏はこの武器と中国鏡に代表される日本最古の時代の動きを一言で「文明」型文化の初来日と呼んでいる。
これは非常に大切な日本の国家形成の始まりを示す言葉である。

@北部九州奴国周辺諸国は紀元前から中国漢王朝などと交易していた。→どうやって?船で。誰の?倭人=海人の。このとき宗教、民間信仰などの観念的流入も起こった。
A大量の武器が紀元前から北部九州には届いていた。→どんな?実用品としての銅剣、銅矛。
なぜいるの?九州玄界灘沿岸でいくさがあるから。
どうして戦争が?いくつもの先進技術で進んだ地域、集落が拮抗し、勢力争いをしたから。
どうしてそんなことがわかるの?戦場の痕跡がある遺跡からは鏃や矛で骨折したり傷ついた遺体が出てきて、そこにはちゃんと武器が残っていたから。

Bこの戦場遺跡は那の津・玄界灘沿岸と山口県豊浦海岸一帯から出てくる。日本ではここだけ。蝦夷のいた東北、東海、近畿ではまず出てこない。実用に耐えうる武器も一切出ない。かわりに祭祀に用いた銅鐸が出る。
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先進技術=科学力が戦争の原因となったのである。もっとも拮抗する勢力は道具がなければ石を持ってでも争うのが動物の時代から決まっている。科学は常にその片棒を担ぐが、おかげで文明は発達したからよしあしなのは否めない。それは今後も変わらないのだ。残念ながら。だから人類は未だサルと言うしかない。
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文明型文化とは?
それは簡単に言えば中国やフランスの歴史を見ればわかる。
争い、競い合って淘汰された「王」が国家を集約してゆく課程に起因した発達である。
われわれが今いる世界がそのような「血であがなわれた平和」の上に成り立っていることを歴史学はもっとも大切な道徳として教えてくれるのである。
おそらく歴史学のもっとも重要な役目は「歴史への反省」ではあるまいか?歴史はいつも反面教師。学ぶことはすなわち反省と応用。
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なぜ九州と山陰だけが争ったのか?
そしてその後なぜ繁栄が止まったのか?
ここが古代史最大の問題であろう。
参考にしたいのが上古の大和朝廷が何度も移動することであろう。
遷都もまた同じ。
同じ理由で移動する。そしてそれは地域氏族の合意によって行われるのであろう。
と言うことは戦争にいつかは嫌気がさすということになるだろう。
「なぜ戦争は終わらないの?」ではなく、「戦争と平和を繰り返して人類は進化する生き物」だということになるのである。平和ばかりが続くと進化できないし、いくさばかりでは滅びてしまう。
動物は増えすぎると自ら子孫を減らすために工夫する。そのかわりなのである。
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さて、それよりも九州はどこへいったのか?
吉備方面、瀬戸内を通って住之江に到達したか?
ヒントとなる事柄はは戦争忌避という観念的なことよりも、具体的な発掘物からわかるのである。
住之江は昔、那の津だった。
そう博多湾と同じ名前である。そこに九州の古い土器が散乱している地域がある。
大和川水系の石川(のちに蘇我氏本拠地)が作り出す当時の三角州地帯である瓜生堂である。
ここから出る土器の形式だけが大阪では遠賀川式なのだ。
今ここはもう陸地である。南区久宝寺にほど近い、ここまで海が来ていたのだ。
このデルタの外側からは遅れた縄文系土器しか出てこない。
ここが近畿の最古の港なのである。
従ってここから近畿の歴史は始まったと言ってよいかも知れない。
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これは東遷などという大それた移動ではない。
ある九州の少数の氏族が引っ越してきたか、あるいは九州で遠賀川土器をちゃんと習ったものが帰って来たか、しかない。
地名を見ると山賀がある。恩地がある。羽曳野丘陵のはじっこに彼らが最初に来たときのことは記紀記述のニギハヤヒ物部の神武恭順記事があるが、そのような大きな痕跡など今のところない。近畿にはあらそいの痕跡がないのだから、ここで物部氏との拮抗などあり得ないだろう。
当時の近畿は東国のはじっこである。いまだ縄文である。
それは記紀のナガスネヒコや吉野の井光に一致する。
統率していたのではなく利害関係の薄い布でかろうじてつながっていたにすぎない。
しかし発掘はそこにいくさを認めず、あったのは稲作に起因する協調だけ。

そもそも瀬戸内の奥に都が移った(派生した)こと自体、大陸の圧迫からの逃避であろう。
本来なら列島の最東端である関東平野でもよかった。
しかし関東平野は当時荒れ野と湿地しかない最果てで、貧弱な船では交易もままならなかった。ところがすんでいる人の数は関東、東海が一番多いのだ。
ということは彼らは蝦夷である。蝦夷と九州から来た海人がここで融合していた。
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「倭国大乱」は本当にあったのに、それは九州に間違いないのに、なのに九州の氏族が大挙して押し寄せた痕跡が近畿にない。その謎を解く鍵こそが「共立」、そして新たな巫女女王の共立だろう。
もうそれしか考えられる資料は存在しないのだ。こうして大和は祭祀の先進地となった。間に吉備、瀬戸内というインターバルをおいて、新たな変化を遂げながら。

参考文献;松木武彦『日本の歴史26 列島創世記』小学館 2007・11月


●青谷上寺地と倭国大乱・弥生時代の戦争

3世紀前後の弥生時代の集団同士の争いの痕跡を証明できる遺物
@防御施設(防壁・柵・壕など)を持った集落遺跡
A武器遺物
B殺傷痕のある人骨

C墳墓における武器副葬
D武器型祭器
E戦いを表す造形品、あるいは装飾そのもの

以上が発掘された場合、それは戦争の痕跡であると国立民俗博物館は示唆、仮定している(1996)。
私的にはCDEについては、厳密には断定できないだろうと思う。
なぜなら、武器型造形物や絵画はどこかで見てきた印象を書いたかも知れないし、武具の副葬は権威に終わったかも知れないからだ。
一番重要なのは@ABであろう。
さらに付け加えるならば、武器遺物を製作したと断定できる加工場遺跡が周辺にあれば確定的であろうが、そういう施設は戦場や集落と同居しないのが常である。武器生産工場というものは大規模な田畑と地域を隣接はするが、都市機能としては「ムラ」から隔離されることが多くなる。移動の時代や、集落がまだ小さく、近隣との小競り合い程度の争いの時代にはムラに含まれていた機能が、集落の定着と発達につれて専業化していったと考えられる。

ではそれらが発掘される場所がそのまま戦場となったかと言うと、そうではなく、1〜3世紀に限って考えると、発掘からは、戦場は山陰から玄界灘沿岸・・・すなわち遠賀川以東の日本海側であるという。
その中で『倭人伝』の「倭国大乱」に相当できる地域を九州歴史資料館の橋口達也参事補佐は鳥取県青谷上寺地(あおやかみじぢ)遺跡を候補にしておられる(2007)。
この遺跡から出てくる異常な殺傷人骨は戦乱によるものであることは疑いないと井上貴央、松本充香両氏は鳥取県教育文化財団調査報告書で書いている(2002)。

現時点での想定であるが、青谷上寺地遺跡が倭国大乱の最有力候補であるとしておきたい。

となると・・・。
狗奴国とは山陰にあったのだろうか?
であるなら、当時の中国の地図感が日本列島を逆さまにとらえていたという推測はあながち荒唐無稽ではなうなるのかも知れない。

いずれにせよ、逆に考えれば、狗奴国の比定地候補にはこうした殺傷痕跡がなければならなくなる。
南九州や熊野などにそれが出てくるのかどうか。

青谷上寺地は北部九州にあった奴国あるいは伊都国などの先進プレ国家と山陰がいくさをしたという証拠である。
それは一部の畿内学派が言う、大和対北部九州の大乱かどうかはわからない。
日本の文献には出雲と崇神の相克が描かれてはいるが、それはあくまで神話の域を出ず、吉備ほどのリアルさはない。
大和から殺傷人骨が出たならばそれも考えられようが、今のところそれらの多くは現地山陰と福岡県地域に限られているようである。
現時点では倭人伝の時代、大和は大乱を起こすほどの武力をいまだ持たないと言うしかなく、山陰には大量の武器が出ている。
今後の発掘次第ではあるが、やはり唐古・鍵遺跡という祭祀都市が現れるきっかけが卑弥呼の共立と死であったとすると、大和はまず瀬戸内〜東海までの共栄祭祀都市だったと考えられ、それが門戸を閉めた北部九州と対立関係にあったと考えるのは確かにわかりやすいが、確定したとはまだ言えない。
大和から山陰に出張ってきた戦闘員がもしあったなら、殺傷人骨が大和に帰らなかったのは奇妙である。北部九州からは大量の遺骸が葬送されていた甕棺が出てくる。だから、大乱の片方は彼らだったことは間違いない。しかし山陰の遺骨たちがどこから来たのか、あるいは現地人だったのかはまだ確定できない。

出雲が文献の中で「黄泉国」と表現される理由は、もしかすると、東の大和から見て、過去の戦争死亡者を埋めた場所という認識だったと考えると、文献と考古遺物が合致して、大和学派は大いにうれしがるに違いない。
さて?

参考文献 橋口達也『弥生時代の戦い 戦いの実態と権力機構の生成』雄山閣 2007


●殺傷人骨の出現と環濠集落のリンク

@殺傷された人骨は新町24号人骨(福岡県志摩町、伊都国比定地)などに示されるように(弥生)早期末に出現する。

A早期前半には有柄式磨製石剣や柳葉式磨製石鏃(画像と解説→http://inoues.net/ruins/sito_sisekibo.html 
BGMありご注意!! 
http://www.d-munahaku.com/search/ichiran.jsp?searchstr=%96%81%90%BB%90%CE%8C%95

・・・(ともに弥生文化成立当初から存在した石製武器・かわかつ筆)・・・などの完成品が出る。これが早期末になると棺の中から出るようになるから、これが武器の副葬の始まりだとされる。→つまり墳墓に武器を副葬する習慣は鏡などの埋葬と同じく北部九州伊都国や奴国から始まり東へ伝播で確定。前方後円墳時代もこれを踏襲。
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ただし、これらがすでに戦闘用であったかどうかは、当初発掘では、生活遺跡から多かったために、いまだ確定できないらしい。鏃は狩猟用であったかも知れない。しかし剣は敏捷な日本の小動物の狩猟には重すぎると思う。とどめを指す道具かも知れないが、それならナイフでも事足りる。
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B環濠集落は弥生文化開始当初のものはない。
C早期末に出現し
D犠牲者も出現
Eこれは武器副葬の開始時期に一致する。

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稲作の発達が米倉を持たせる。
倉遺跡の出現はそのままプレ国家(大集落)を形成するきっかけとなり、他の集団との戦乱もこれに始まる。稲作は戦闘用武器に先行する・・・はずであるが、実は武器のほうがずいぶん古くからある。
稲作は弥生時代に入ってすぐに定着したわけではなく、縄文的狩猟とかなりの長きにわたり共存する。
だから武器と戦争はすぐには結びつかない。狩猟や小競り合いに用いられたのだろう。
かなりの集団がクニを持って始めて「戦争」の規模になった。

前期後半から中期前半にかけて壮烈ないくさが始まる。
弓矢でいかけ、剣でとどめを刺し、首級を切り取る。(実例・宇木汲田・石崎曲り田、三雲各遺跡の甕棺に埋葬されたたくさんの首なし被葬者)

ちなみに鳥取県青谷上寺地の殺傷人骨から出てくる銅鏃は、壱岐原の辻と同系列とされている。
その原の辻の銅鏃は春日市須玖岡本周辺で鋳造されていたと考えられている。
これを持って青谷上寺地の戦争痕跡が倭国大乱を反映したものだと橋口達也は考えておられる(2007)。
参考文献 前出『弥生時代の戦い』および広瀬和雄『前方後円墳国家』角川選書 2003

●○だんだん邪馬台国が見えてきましたか?


●このように見てきても邪馬台国だけは大和 というしかない

前方後円古墳の歴史的背景、鉄器の分布、銅鏡の破壊と、これまで見てきた、検証してきた考古学の物証は、あきらかに九州優位を示している。

しかし、それでもなお、邪馬台国だけは大和にあったと思っている。

なぜなら、三世紀の段階でこれといった力を持たなかったヤマトには邪馬台国を王国の首都として「共立」するだけの立地条件があったからだ。
さらにこの国の弥生時代〜古墳時代にかけて、東西の大きな激突があった痕跡がない。

これはまさに「共立」を生み出す基盤・・・話し合う政治の二大地域団結にいたる前提であったと思えるからである。

シャーマニズムによる託宣が持つ、武器以上の影響力を考えねばならない。
卑弥呼の都市に武力はいらない。
遠ければ遠いほど、それは効果的である。
カリスマ的巫女王は姿が見えないことが重要なキャラクター・ポイントなのではあるまいか。

すなわい日本人の、争わず無言でも通じ合う、暗黙の了解とは、決していくさのあけくれでは生まれ得ぬ観念ではないのか。
九州との協調が大事であればあるほど、強ければ強いほど、目に見えぬ辺境の大和にあった不気味なシャーマンの存在は神秘化され、増幅されて、勝手な妄想を地方豪族たちに持たせたであろう。からっぽの大和が充実した地方豪族を牛耳るとは、これもまた痛快な小説的世界であり、唯物史観とはまったく別の次元でこういう着想があってもいいと感じている、私は複雑面妖な矛盾した男なのであろうか。思わずニヤリとほくそ笑んでしまうのである。

圧倒的に優位に立つ九州の力量を認めながらも、かわかつは邪馬台国大和説を今のところ認知するしかないと思うものである。
それは吉備から始まって全国を巻き込んでいった前方後円墳の成立と中央集権国家成立の過程がリンクするからである。
しかし、その証明方法はこれまでのものとはまったく違っている。古墳の持つ祭祀性に重点を置くのだ。
距離、方角、武力などといったこれまでの捜査手段は、はなから『魏志』の記述自体に信憑性がないと判断するところから始めるべきであろう。なぜなら、これまで何十年間もその方法でやってきてもすべて水掛け論のままだったのだから、新しい方法を探すしかないのは当たり前だ。

●前方後円墳起源は吉備・・・それは石棺石材分析からわかってきた!

9万年前化噴火阿蘇山溶岩凝灰岩の使用古墳、石棺一覧

      氷川産灰色石     菊池川産      宇土産      宇土産ピンク石
4世紀後半 山背八幡茶臼山                      石室使用・肥後天草長砂連
                                         (ながされ)
5世紀初頭 播磨龍野中島朝臣

5世紀中盤            讃岐長崎鼻
                 讃岐観音寺丸山
450・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    
                 讃岐青塚 
                 伊予蓮華寺
                 河内唐櫃山     備中造山前方部
                 河内長持山(身)  河内長持山(蓋)     1備前築山
5世紀後半 紀伊大谷       備前小山      和泉峯ヶ塚      石室・肥後井寺、
                                         ヤンボシ、
                                         千金甲、鴨籠                                    
6世紀前半                                      2大和野神
                                             3摂津今城塚
                                             4大和ミロク
                                             5近江丸山
                                             6大和慶運寺
                                             7大和鑵子塚
                                             8近江甲塚
                                             9大和東乗鞍
                                             10大和兜塚   
7世紀                                         11河内植山東



板橋旺爾『大王の柩』所収の一覧図から誤りを訂正しかわかつ作成。
注目は宇土灰色石と菊池川灰色石を組み合わせた藤井寺市長持山石棺である。
肥後のふたつの地域の石材を組み合わせている。

さて、阿蘇凝灰岩使用古墳一覧をご覧になれば、一目瞭然で氷川、菊池川産の石にとってかわってゆく宇土産凝灰岩石棺の動向がおわかりになったことと思う。

宇土の灰色石が最初に使われたのはご覧の通り、吉備王の巨大古墳、350メートルの造山古墳前方部である。当初、備前に入っていたのは菊池川産石棺だった。それが時代を少ししか異にしないお隣の備前造山古墳の、しかも吉備王という最大氏族に錐もみのように宇土の石が。

宇土と氷川は隣接する。
読売新聞の板橋旺爾は、だから宇土の石を持ち込んで吉備王と深くえにしを結んだのは氷川の豪族の起死回生の逆襲だととらえた。それはにわかに断定はできないが、ヒントになるのが大坂藤井寺の長持山古墳二号石棺だと感じる。

ここは菊池川の石を身にし、新参の宇土の石を蓋にしており、河内の苦肉の策と見て取れる。造山への売り込みからまだ二、三十年では、畿内にまでえにしが深まっていなかった可能性がある宇土豪族は、しかしこれを契機に完全に倭王権に浸透して行く。6世紀にはもう大和、摂津、近江の大王クラスの石棺のすべてが宇土産へ移行している。それをさらに決定的にしたのが言うまでもない宇土の赤い石棺であろう。

これによって氷川宇土は逆転さよならホームランを放った。
こうして火の国造は倭王によって宇土半島そばの葦北へ決定する。
そして吉備王の弟であった葦北国造・吉備の鴨分子孫たちは一大勢力を持ったことになるだろう。
もちろん河内の倭王権にとって、吉備王は「鉄の大王」。もともと発言力が強大で捨て置けるはずもない。そもそも河内王朝の創始こそがこの吉備なしではありえなかったと考えられる。

だからこそ、河内、大和の前方後円墳の様式に吉備は非常に影響したと見る。
楯築式突出、楯築式土器、直弧文の採用・・・。
すべて納得がいく。
そしてその背後にいた肥後熊本の氷川・宇土の豪族たち・・・。
彼らの中央でのバックアップを引き受けたのは、間違いなく、葦北国造から「我が君」と呼ばれた大和大伴大連一族であろう。

河内王権下で、大伴大連は絶大な力を持つ宰相であった。
大連の位は大臣を凌駕するものである。
それは大和在住勢力だった出雲にえにしの深い銅鐸氏族・物部大連よりもさらに上。
なぜなら大伴大連は最初から河内王朝の親衛隊として、すでに半島、九州から五王たちを助けてきた経緯があるからではあるまいか。

大伴氏は西から来た、最古の氏族ではないか。

とりもなおさず、こうして宇土半島という北部九州と南部九州のはざまにある辺境の地にゆるぎなき在地豪族「火の君」が誕生する。しかしやがて実権を持ちすぎた彼らに「別の国造」という人物がやってきて管理を始める。火の葦北国造の登場。
国造が出雲、尾張などで行う事績は、強すぎる在地豪族の監視と管理であろうと思われる。

おそらく葦北国造もそうした指命を負ってやってきたのだろう。それは彼が瀬戸内の吉備王の血を引く大豪族で、河内王朝に発言力があったことからわかる。すなわちこの国造は大和大伴大連の肝いりでやってくるのだ。ここに大伴=倭王の可能性が見え隠れしていると言う者すらある。

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畿内に入った石棺はやがて大きく技術を向上させ、切石組み合わせから進化して原石くり抜き式の格調高い石棺へと変わって行くのである。
そして型式は二つの方向へ。
在地豪族クラスが用いるものと、王家が用いるものに格差がはっきりと現れる。
畿内の様式である長持型石棺の様式は中央の周辺実力者へと下賜され、王家はすべて家型くり抜き式に変わるのである。その最初の古墳が継体大王の今城塚だ。
丸みを帯びた以前の長持ち型石棺は継体大王の父方である近江三尾の一族や、藤井寺など周辺諸国で使用される。これは継体の地盤が地方豪族からという文献記事にフィットする。

阿蘇ピンク石の登場はまさにその継体大王登場の時代、6世紀の出来事なのである。
だから赤い石棺は、同じ阿蘇凝灰岩の中でも、特に重要な政治的意味合いを持っていることになる。
それは「倭五王王権との区別」でもあろうか?
つまり継体の登場は河内王朝の終焉を意味した、そうかんがえられるのである。
ということは灰色石の舟形石棺で、直弧文を持っていた、大王の印である魚を使い、鉄剣に雄略大王とのえにしを刻むことができた東西の氏族・・・さきたまの王と筑紫の王は・・・ここにきて別の氏族にのっとられてしまう可能性が出てきたことになるだろう。

雄略の石棺。
倭王、河内王朝最後の大王・ワカタケルの石棺。灰色石。

さてその前王・允恭・・・すなわち倭王済について語ろう。
彼の元に付き従ったはずの火の靫負部のことを。

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●○●○結語;科学するならフェアプレイでなくっちゃ!

さて、九州の考古学の立場に立って、実際に圧倒的なその技術に関する発掘を検証してきたにもかかわらず、なぜ邪馬台国大和説を認知するかと言うと・・・一見、矛盾するかに見えるかも知れないが・・・正直なところこれまではどっちでもよかったというのが本音だった。
ただ、九州で生まれたものとしては、これまでの大和説があまりに恣意的で押しつけがましい、非常に偏った言い方しかしてこなかったことに対する憤りがあったのである。

だから一度、思いっきり大和説をコケにしてやりたいと考えていた。
弥生時代までの九州先進国は事実である。
しかしながら、だからといって九州に偏る気にもならない。

優柔不断なのではなく、科学の分析によって歴史は判断されねばならない、というあくまでフェアな、実証主義的立場に双方が立って争論してきたとは言えないと思っている。
どちらの意見も、不備、不足をごまかし、無理な解釈をあたら展開してきただけだ・・・そういう解釈だった。どっちもどっちだと。

白紙に戻して最初から見なおす。
お互いが相手の検証に耳を傾けてこそ、両者が一緒になって平等にかつ冷静に分析してゆく態度でなくて、いったい日本人全部が納得してくれるだろうか?

そういうアンチテーゼを、皮肉をこめて、かわかつはここに提示したに過ぎない。
考えるのは私ではなく、あなたがた全員なのである。
結果、私の大和説が比定されても、私はいっこうにかまわない。
なんの損失もない。
私はすでに三年前の著書の最後に「邪馬台国から離れなさい」「倭人伝をお捨てなさい」と述べている。こんな問題は歴史の上ではほんのささいな問題でしかないのである。

次回からいよいよ阿蘇ピンク石石棺と飛鳥氏族存亡の謎に迫る。

最新考古学と考古理化学からわかる
前方後円墳起源と国家成立過程
ついでに邪馬台国所在地

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