山門郡瀬高町は有明海の遠浅の入り江を埋め立てた
干拓の町。こうやの宮は本来、高野宮が正しい。
こうやとは高良と関わるか。筑紫の君の本拠地八女の
高良大社のこうらは「かわら」からきたのか?
いづれにせよ奈良の石上神宮にあるはずの七支刀を
持つ人形がどうして九州にあるのか。
それはここが本来の「日本国」であったからだというの
が古田武彦氏の主張である。
私も最近、それが正しいのではないかと思い始めてい
る。ありえないと思っていたことがなにやら現実になりつ
つある。

役場で聞いてなんとか場所はわかったが、祠を開ける鍵がどこに
あるのかわからない。訪ね尋ねてようやく隣部落の江崎氏を捜し当
てる。福岡教育大・九州産業大で講師をされておられた方で、鍵を
お貸しいただくどころか、わざわざご案内していただき、貴重なお話
もお聞かせ頂いた。恐縮のいたりである。地元を愛しておられること
を痛感し、感謝感激。
在所は地名を「太神」と書いて「おおが」という。宇佐の大神氏とは点
のあるなしだが・・・。
風が強い。江崎一族はここの隣で、氏子は本来違う。
行けばわかるが、台風で倒壊した旧廟を再建し、中の人形のお社も
新調してある。
人形は代々、塗り替えられてきた。だから漆も美しい。

画像を拡大して、じっくりその模様など見て欲しい。
七支刀は残念ながら支刀を一本欠損して「六支刀」になってしまっている。しかしこの大陸的服装はどうだろう。
百済の武人か?あるいは大王か。
そもそも大和朝廷に対し、百済王が贈ったという日本書記の記述から疑ってかかって見たくなる。
古田氏が言うように、実はそれが大和朝廷以前から筑紫にあった「日本」に対しての話であったとすれば・・・
筑紫は本来、百済ではなく新羅と友好的であったはず。筑紫の君磐井は新羅国王からの依頼で乱を起こした。
ならば百済が筑紫の君に贈り物をするのはおかしい。七支刀を贈ってきた相手は実は新羅王ではなかったか。
服飾関係の方にこの服装を調べて頂きたいものである。
さて、大事なのは中央の人物である。
杓を持ち、デンと構えたこの貴人の衣冠束帯の中央にある家紋。五三の桐である。
この人形の衣装の時代、五三の桐を堂々とつけられる一族と言えば、摂関家である。
してみると彼は藤原家、あるいはもっと遡れば大伴家しかない。
衣装から見るにどうもそこまで古くはないのだろう。
彼が七支刀を受け取った大王であろうか?
さてさて、それでははじっこの赤いカッパのような男は何者だろうか。
向かって右の夫婦のような二体の異人さんは?
カッパは頭に髷を結い、布でその髷を覆っているようだ。身体は南洋の土人のように真っ赤。腰には浦島太郎の
ような腰蓑姿。
髷を布で覆うのは中国南部の海人の風習なのである。
そして色黒、腰蓑とくれば、これはもう白水郎だ。つまり彼等の船頭は江南地方の海人族ということになる。
もっとも朝鮮半島海岸部・・・いわゆる加羅の水人なのかも知れない。
海人族は渡航者にとってなくてはならない水先案内人なのであろう。
では右の二体の男女は?
服装・・・特に頭の冠は中国風。服は呉服。両手を袋手にして拝謁、感謝の意を表している。
これはどう見ても中国の貴人。彼等はズバリ、呉の使者である。
百済でもない、新羅でもない、日本に七支刀をくれたのは呉の国王ではなかったか!?
魏、晋、隋、唐・・・と、漢民族との付き合いを書く正史、朝廷にとってこんな都合の悪い話はないのではなかろうか?
とりもなおさず、それは九州に、大和朝廷にはまつろはぬ、あるいは別格の、古い国があったことの証しとなりはし
ないか。考えても見よう。1世紀からすでに九州には奴国があった。そして3世紀の魏志に描かれる国々はすべて
九州北部の海人族の風習を持った国ばかりではないか?
八女に近いここ瀬高は有明海に面し、そこから真西に海を渡れば、すぐに会稽東耶に行き着くのである。
黄河流域から船出して海流に乗ればいったい東シナ海は船をどこへ運んでいくだろう?海洋学者に聞いてみようで
はないか。

ついでのことだがここに来られた方は廟内の芳名帳に書き込んで頂きたい。芳名帳の最初のページに
大書された古田武彦大先生の達筆のサインと、一緒にくっついていった何十人もの研究家・・・おそらく古田史学会
の面々・・・の一個連隊がここにどやどややってきた痕跡をご覧いただきたい。
ちなみに私はふたりだけでした。そら静かなもんですわ。
ここは静かなままが一番似合っていました。


福岡県山門郡瀬高町太神こうやの宮
七支刀人形

瀬高町鎮守・釣殿宮

釣り殿宮とは奇妙な名前。
しかし広く瀬高の人々の尊崇を集める小社。
それもそのはず、かつて有明海はここまで潮が満ちてきた。
だからここは地元の漁師達の神様なのである。で、釣りてんぐう。
釣り天狗と言えば呉の宰相・太公望である。
海人の祖先は呉太伯。つながった。
エビス様が祭られているのだろうか?
祭の後なのか、拝殿には茅の輪があった。
カヤでつくられた南方系の風習であるが、京都の八坂神社が有名。
また春日神社系でも茅の輪くぐりは継承されている。
海人は一方で敬われ、一方では追いやられもした・・・

神功皇后・御幡碑

こういうものがここにあるのも変。
おそらく国史編纂後の付会だろう。
あるいはこういう見方もあるのか。
西の方によい国があるからそこを奪いに行こう
と神功皇后は仲哀天皇に言った。
ところが山に登ってみても西の方に国など見えなかった。当たり前である。玄界灘から見えるのは
朝鮮半島以外ない。それは北に見えるのだ。
では西の国とはどこから見た、どの国なのか?
当然、有明海から見た、呉の国しかあり得ない。
ということは、このお話はもとはここから出てきたってことだってあり得る。


女山神籠石

「ぞやま」と読む・・・???
「女」を「ぞ」と読む例が他にあるのだろうか。

それにしても有明海に面した筑後の国に、天智天
皇はなぜ山城を築く必要があったのか。
玄界灘からぐるっと西に回った背後になるからか。
そしてなぜこんなに精密に美しいつなぎ目なのか。
そんな時間があったのだろうか。敵が攻めて来る
というのに・・・
もしかしたらであるが古代のカンナ場趾かも知れない。


有明海

矢部川河口から島原半島を臨む。
干潮時の遠浅の浜が見たかったが・・・


画像のページ 6
画像のページ 7

倭国が日本と名乗るようになるのは聖徳太子の時代である。
「旧唐書」が「日本はもと小国、倭国を併せ・・・」と語る時代は推古女帝の時代である。
そしてそれは正確に言うと601年の事である、と梅原猛は書く。
西暦601年は推古が天皇となる年であり。また聖徳太子が摂政となる年。
おそらく「天皇」の尊称もこの時から始まる。
601年は干支で言う「辛酉」の年であり、「かのととり」とは中国では革命の年となる。
太子はここを起点にして「天皇記」「国記」を編纂、その伝統は天武天皇が起案した「古事記」
「日本書紀」にまで影響した。
ここから干支巡して逆算して行くと日本の起源はちょうど神武東征の年と重なる。
紀元前2300年から601年までの2900年間に歴代の33代の天皇を挿入して行く必要が生じてしまい、
結果的に遠い時代の天皇が100歳以上にされたしまったというのである。
従ってうがった見方をさせていただくなら、「倭国」とはのちに「大倭国」となる大和国であり、
それ以前に「日本」はなかったことになる。
では「倭国」が「併せた」小国・日本国とはどこにあったのだろうか?
梅原はそれを日高見国と呼ばれた東北地方の蝦夷の国であると喝破する。
しかし、それは妙だ。東北の蝦夷が平定されるのは坂上田村麻呂の九世紀の話ではなかったか?
では東国に絞ればどうだ。そう梅原は言う。
下毛野を中心とする関東諸国である。
これに対し古田武彦は倭国とは九州北部に一世紀からあった倭人の国であり、日本とは生駒山地の日下
を中心とする畿内地方の事だというのである。
このサイトはこれまで、豊後の海部郡から始めて北へ北へとその移動を追いかけてきた。
これから紀伊、東海、相模、房総へとその足は伸びて行くだろう。最終的に北海道・津軽海峡にまでその繋がりは広がって行くと考えている。
私の中にある海人の国は九州から黒潮に乗って東国にまで広がっていた。
おそらく大和は彼等の最終的に選んだ場所に過ぎない。
1世紀〜卑弥呼の時代の前まで、「倭人の国」は確かに北部九州にあった。
そしてその残照は筑紫の君磐井の時代に終焉を迎え、それから百年後、おそらく九州に祖を持つ聖徳太子とい
う大王の出現で日本国として復活したのだ。
聖徳太子の諡号は間違いなく「アメノタリシヒコ」であろう。
「和を以て尊しと為す」・・・・なごやかなるをもってとうとしとなす・・・・17条憲法・第一条
これを漢文にし音読みしてみて欲しい。

「以和為尊」・・・「いわいのみこと」
冗談ですよ。妄想です。

ブログパーツUL5

NEXT

リストに戻る