<九州防衛局が昨年12月27日に発表した今度の米軍訓練に関する情報>
1月下旬 訓練部隊 日出生台演習場到着
2月7日~2月13日 射撃訓練期間7日間(このうち、射撃日数は5日間)
2月下旬 訓練部隊 日出生台演習場出発
<今年の米軍の訓練規模>
(1)中隊レベル
(2)人員:約160名
(3)車両:約40両
(4)砲数:4門
2011米軍訓練開始の直前までの取り組みはこちら
<日出生台ピースアクション2011 米軍訓練開始後>
2月7日 (月) |
<米軍実弾砲撃訓練の報告> 2月7日(月)米軍実弾演習開始
朝、日出生台は静まりかえっている 監視小屋には早くからマスコミもつめかけている 演習場周辺には米軍の車両と通信アンテナらしきものが… 高台から見ると、林の陰にも米軍車両 旧カンテキコウ後にも米軍の車両 赤い旗は実弾演習が始まっている印。
11時4分。米軍は初弾を発射。
正午、大分の島田さんが呼びかけての ピースウォークスタート! 島田さん(写真左)は、今年もJR由布院駅から日出生台の監視小屋がある場所まで ときどき、ひろみちゃん(写真右)、平野さん(写真なし。ゴメンね)も応援で参加。
米軍の方は、 初弾を撃った後、一気に撃ちまくり、 一呼吸おいて、夜間訓練に入り、
その数、あわせて 147発
日出生台でこれまでに米軍が行った、 一日の砲撃数としては過去最多。
(これまでの一日最多は124発) また、夜間砲撃としても54発は過去最多。 (これまでの夜間最多は46発)
住民の思いをピースキャンドルに託して
そんな中で、私たちは、毎年、米軍実弾砲撃訓練の始まる初日に行う ピースキャンドルを今年もおこないました。 以下、その報告です。
日出生台演習場を見下ろす高台の畑に集まった約20人の参加者たちが、 紙コップに土を入れ、小さなろうそくをさして並べていく。
午後6時、夕闇の落ちる日出生台でピースキャンドルの点灯が始まった。 このろうそくの火の最初の火だねは、 2000年12月7日に、山田バウさんという方が 日出生台に届けて下さり、その後、11年間、湯布院の見成寺に 預けられて、ともし続けられてきた「原爆の残り火」だ。
子どもたちも一緒に火をともしていく。 PEACE FROM HIJUDAI 日出生台から平和を!
畑の向こうは日出生台演習場。
日出生台は、 110余年にわたって軍事演習場として使われ続けてきた。 この国のいくつもの誤った戦争に常に関わらされてきた場所だ。
そんな場所だからこそ、 むしろここから平和を産み出していく運動をつくっていきたい。
もう、沖縄や日出生台などの 地域を犠牲にして成り立つ安全保障は そろそろ変えるべき時期に来ている。
そんな思いを込めた言葉。
でも、 この日、 ピースキャンドルに火を灯す私たちの向こうでは 過去最多の激しい砲撃訓練が 米軍によって行われた
それから、もう一つ。 報道によれば、大分県の職員が、 1月14日に県庁交渉の際に申し入れた内容が実現された形。 住民、地元自治体、県が連携し、
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2月8日 (火) |
<2月8日(火)米軍演習2日目> 午前10時 前日の過去最多砲撃について、 抗議と訓練の即時中止の要請文を 米軍に対して出した。
そして、 その抗議文を出した日に米軍が撃った砲撃数は なんと…172発(唖然) 2日連続の過去最多更新。 8回目の訓練にして、 もはや住民への配慮よりも 米軍訓練を優先する姿勢を むき出しにし始めた。 2日間の合計319発。 これは9日間かけて333発を撃った2004年に匹敵する数を 2日で撃ったことになる。
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2月9日 |
<2月9日〔水)米軍演習3日目>
2日連続で過去最多の砲撃を行った米軍の指揮官に対して、 この日も朝1番で抗議文を出しました。 抗議文提出も2日連続!
連日の過去最多更新。 2日間の合計砲撃数 319発。 これは2004年の日出生台訓練で9日間かけて撃った333発にも匹敵する数。 いかに激しい訓練が行われているかがわかる。 手がつけられない状態とはこのことか!? 「日出生台での米軍使用協定」には砲弾数の制限はない。 協定に制限がなければ、どんな訓練も許されるのか1?
朝、日本山妙法寺の皆さんが、日出生台演習場ゲート前を 平和の祈りを唱えながら歩いていた。 どんなに寒くても、寒風吹きすさぶ中でも彼らは行進する。
また、この日は、 地元の関係者や、マスコミを相手に公開訓練が実施された。
前回から使われるようになった小火器〔小銃、機関銃)。 今回はこの2種類を使うという。
155ミリりゅう弾砲。 りゅう弾砲の下にはなにやらパラパラと落ちている。 写真を拡大してみると…。 薬莢?155ミリを撃つと出てくる? それとも小火器のものか?
今年の公開訓練で特に気づいたのは、 例年は地元向け公開訓練が終わったあとに、 マスコミ向け公開訓練と2部構成で行われていたのだが、 今年は、その中に自衛隊も参加して、 りゅう弾砲を取り囲む輪がいつもより1つ増えて、 自衛隊員向けにも公開訓練がなされていたことだ。 これについて、今年の日出生台訓練を伝える米海兵隊のホームページでは、 米海兵隊の使う新しいりゅう弾砲について、 自衛隊員にその性能、特徴を説明したというくだりがたくさん出てくるので、 要するに、新商品の宣伝営業を米海兵隊が自衛隊に対してしたということらしい。
この日は昼過ぎにサイレンが鳴って演習は終了となった。
この日の合計数は33発。 今日の発射段数はそれほど多くはなかったが、 それでも3日間の合計352発は 8日間で343発を撃った2001年、2002年、 9日間で333発を撃った2004年を わずか3日で越えてしまったことになる。
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2月10日 (木) |
<2月10日〔木)米軍訓練4日目> 演習が始まって以来、初めての快晴の日出生台。
4日目の総砲撃数は131発。 4日間の累計483発。 |
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2月11日 |
<2月11日(金)米軍演習5日目>実弾演習の最終日 夕べから降り続いた雪で、一面真っ白になった日出生台。 本来のこの時期の日出生台の姿だ。 米軍にとっては初めての雪の中での訓練。
老いも若きも平和のための監視活動
実弾演習の最終日となったこの日、 その後、午後から小火器の実弾演習に入った。 昨年は、風も強かったせいか、まったく音を聞き取れなかったが、 今年は風もなく、静かな日出生台に機関銃の音が 71分間にわたって、ほぼ連続して響きわたった。 5日間の155ミリりゅう弾砲の累計490発。 過去8回の訓練は、今年だけが5日間で、
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2月12日 (土) |
米海兵隊指揮官 リカルド・ミアガニー中佐宛に
…と、上記、演習実施に対する抗議と外出中止の要請文を出したその同じ日に、米海兵隊の一部、十数人が、午前中に、演習場に近い、児童養護施設を訪ねて「ボランティア」活動をしたと九州防衛局は発表。「子どもと一緒に卓球をして遊んだ」のだそうだ。 しかも、2月12日~13日は「予備日」とされていた日であり、演習場の電光掲示板には「米海兵隊は演習場内の清掃中」と表示されている。そんな中で、こっそりとおしかけ「ボランティア」を出していたとは…。
この米軍が行う「ボランティア」は、あくまで「 」付きの「ボランティア」であって、本来ボランティアというものは、相手にとってそれが必要か、それをこちらに求めているのか、こちらがそれにふさわしいのか、それが逆に迷惑になることがないのか、など、慎重に検討した上で、行わなければ、ボランティアどころか、迷惑や逆に負担になることもあるものだ。 米軍が訓練終了後に毎回行う「ボランティア」。 「テロの危険性」をその身にまとい、「セキュリティ上の理由」から情報を公開しないで、やってくる「米軍ボランティア」は、その意味で、大きな疑問を持たざるをえない。 本土5ヶ所のすべての訓練地で演習が終わる度に繰り返されるこの米軍による「ボランティア」。その本質は、演習継続、演習拡大、あるいは、米兵の周辺地域への外出完全自由化のための地元懐柔策ではないだろうか。
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2月14日 (月) |
2月14日(月)午前10時 夕べからの大雪の中を、 日出生台演習場から亀の井バス4台が出てきた。 米兵集団外出 今年はなんと、玖珠・九重町内へ外出!!
・玖珠カウベルランド 米兵らはここで早めの昼食。 お酒は飲んでなかったようだ。
・高塚地蔵
・九重・夢大釣り橋 午後5時前に米海兵隊員らを乗せた4台の亀の井バスは すべて演習場内に帰着。 今日の外出は、飲酒をさせなかったので、 トラブルは特別起きなかったように見えた。 「展開から撤収まで、外出も含めてすべて公務」として行われている米海兵隊の集団外出。 飲酒など許可する必要はないし、そもそも 情報を出さない理由として挙げている「テロの危険性」や「セキュリティ上の都合」が 本当なら、集団外出そのものを取りやめるべきだと再度、言っておきたい。
そもそも、この米海兵隊の移転演習は1995年の3人の米兵らによる少女の暴行事件をきっかけに爆発した沖縄県民の基地への怒りを逆手に取って、本土に移転したものであったことを考えると、住民のこの問題への不安な点の1つは治安問題でもあります。 私たちは、演習を終了したら、外出やおしかけの「ボランティア」などは行わないで、即時撤収するように枚か求めていますが、それでも外出や「ボランティア」をやめる気はないようで、毎回、外出が情報を出さないままに行われています。 仕方ないので、私たちは、むしろ、これを 私たち米軍訓練に反対する住民らが米兵らと直接会うことのできる絶好の機会 と位置づけなおして、様々なアプローチをすることにしています。
集団外出時の彼らは、終日の自由外出の場合、夜になるとお酒を飲み過ぎた米兵らの醜態やトラブルが起きることがよくあります。でも、昼間はまだお酒も回ってないので、アプローチしやすいです。 また、修学旅行スタイルで、大分県内の宇佐神宮や、うみたまご、高崎山を回るとき、お昼ご飯に焼肉食べ放題のレストランに入っているときなどは、集団行動なので、アプローチしやすいです。 といことで、私たちは今年も、可能な範囲で、以下のような取り組みを行いました。
また、私たちは、毎回、外出した米兵らに対して、お守り袋にいれたメッセージを米兵一人一人に直接手渡しています。
今年は、九重の夢大釣り橋で、 米海兵隊員らに御守り袋を手渡しました。 彼らは「サンキュー」ととても丁寧に喜んで受け取ってくれました。
お守り袋の中には、
G.I.Rights Hot Lineの2011年版の新しいチラシ、 ようやくできました!
訳は、
というような意味です。
実は、この日出生台の米軍訓練が始まった最初の頃は直接、米兵らにチラシを渡していたのですが、後で、指揮官らに回収され、束にして返されてしまいました。それで、考えたのが、お守り袋に入れるという方法です。 米兵らは、いつ戦場に派遣され、何がおきるかわからないので、とても縁起をかつぎます。日本の文化にも興味があるので、綺麗な手作りのお守り袋は喜んでもらってくれます。ときには、もらえなかった兵士が私たちのところに、分けてもらえないですか?と頼みにくることもあります。 そして、この御守り袋を渡すという取り組みで、米海兵隊員らとちょっとした会話を交わすことで、僕らは、自分たちの運動をまた見直すことができる。 昨年末に見た「One Shot One Kill」という映画は、米海兵隊員らの新人キャンプに密着取材して撮ったドキュメンタリー映画だったが、藤本監督が「今、米軍に入隊するのは、真面目でおとなしい好青年の若者たちだ」と言っていた。 そして、この御守り袋を渡す取り組みを行うと、二十歳ぐらいのこんなあどけない若者たちがイラクやアフガンの戦場に送られて負傷したり、死んだりすること、また、相手を負傷させたり、殺したりすることになることに心が傷む。 彼らを戦場にやらないで済みようにするにはどうしたらいいのか。 兵士たちや兵士の家族たちを悲しませたり、苦しませたりすることのない、そんな社会を実現するために、どうしたらいいのか。 憲法9条を持つ日本の私たちの課題。
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2月15日 (火) |
この日も集団外出の可能性があったので、 日出生台演習場のゲート前に車を止めて待っていたら、 防衛局の職員が一通の封筒を持ってきて、くれました。 中には以下の手紙。 米軍指揮官ミアガニー中佐からです。 内容は、要するに、「私たちが会って、政治的な問題を語り合っても仕方ない。 それは政治家を通じてやって下さい」というもののよう。 ボクらは米軍指揮官と会って、日米安保がどうの、アメリカの政策がどうのと 今、この日出生台で行われている米軍演習について、 過去4回の米軍指揮官との会見実現は、実際にそのようなやりとりが行われ、 そして、この会見の要請にどう対応するかは、 まさに、今回の米軍指揮官は、住民配慮よりも
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2月15日 |
2月15日(火)午前8時30分 雪の日出生台から6台の車が出発した
演習場ゲート入り口では この車が演習場に入るのを見かけるのは、 海兵隊員らに給料を届けにでも来たのかと思って見ていたが、
日通の「現金輸送車」
らしき車は、 そこへ、米兵や防衛局の職員らがそこに集まってきた。 運んできたものを受け渡しするのかと思ったら、 運んできたのではなくて、
この「現金輸送車?」に乗せられたのは、 背中にはそれぞれ1つずつバッグを背負い、 前の席には、「現金輸送」の警備員姿のガードマンが2人。 ガードマンと言っても、この人たちは、 8時40分頃、 午前11時ちょっと前。 到着したのは、福岡空港。
乗るのは「13時10分発のANA489便・沖縄行き」のようだ。
ところで、 現金輸送車に乗せられてやってきた2人組の方は、 ところが…。
書類のようなものを書くように言われて、 どうも雰囲気からすると、男女2人組のうち、男性の方が、 かれこれ20分ほどはやりとりをして、
この段階でやっとはっきりわかったのだが、
ケースにはPELICANの文字。 PELICANは、このようなケースのメーカーの名前で、 たぶんスポンジのようなものが中に入っていて、 彼らは、これを預け荷物ではなくて、
この2人の男女は、 他の米兵らとは別にチェックイン入り口に向かったのだが、 その後ろを日通の2人組ガードマンらが しっかりとガードしながらついて行く。
チェックインの金属チェックに
ここで見送るのかと思ったら、
なんと、ガードマン2人は、 そして、その向こうへと4人とも消えていった。 どうやら、ガードマンらは、 13時10分、沖縄行きの飛行機が飛び立った後、 さすがに沖縄までは一緒に行かなかったようだ。
それにしても…。 そこまで厳重に警備する必要があった緑のケースに入っているのは、 重要な書類といったレベルではここまでの警備をすることはないだろう。 まさか弾薬ではないだろうが、 民間の旅客機に民間の旅客と一緒に乗せても ANAの受付カウンターで
防衛局員らも受付でのやりとりには加わっていたので、 これについては、あらためて もし、米軍の特権で、
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それで思い出すのは、かつてこの米軍の本土移転演習において、
う~ん。 上の記事を読んでいると、 でも、そこで置き去りにされているのは、
さて、今回の緑のケース。
防衛局や米軍には、
…ということで、 今度は、現地対策本部長宛に、
要するに、 九州防衛局の真摯な回答を期待しています!
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2月18日 (金) |
米軍本隊撤収 朝7時 情報がない中で、抗議をするには、交代でゲート前を見張るしかない。 朝7時ぐらいから交代でゲート前に来てみることに。 ゲート前にある大分県の現地対策本部の明かりがついているのを確認。 やはり、早朝から出るらしいということで、 急きょ集まったのは、地元の衛藤洋次さんを含めて4人。 直前までザーザーと降っていた雨も、 私たちのために上がってくれた。 毎年、この米軍本隊の撤収には、 どんなに人数が少なくても抗議をしている。 約1ヶ月(今年は3週間)の米兵の滞在がもうすぐ終わるかと思うと、 なぜだか自然にみんな笑みがこぼれてくる。 やはり、この期間、ずっと緊張しているのだ。 それが、すこしずつ緩み始める。
午前7時半ちょうど、バスが出始めた。 Marines Go Home! Not to Okinawa! Back to America! Don't kill anyone!
迷彩服の米兵ら110人を乗せた、亀の井バス3台に対して、 私たち4人は声をあげた。
バスの中からは、大きく手を振る海兵隊員たち。 カメラでこちらの写真を撮る兵士たちも。 これを「挑発的に」と、見るのか、それとも、「名残惜しんで」と見るのか、 おそらくはその中間のどこかなのだろう。
いずれにしても、 米軍が滞在している期間中に、 もっとも長く彼らと一緒に過ごした 地元住民は私たちなのだ。
ここで、抗議をしている姿を見て、 「ああ、あのとき、ずっと一緒に歩いた人たちがいる」と 思い出した兵士もいるだろう。
Marines Go Home! みなさんが、本当にいるべき場所に帰りなさい。 それは戦場でも、演習場でも、基地でもなく、 故郷の家族や友人、大切な人たちが待つ場所へ。
2月16日に九州防衛局に提出した
予想はしていましたが、
問題となった「緑のケース」については、結論として「中身は言えない。米軍から言うなと言われている。貴重品であって、危険物ではない。ガードマンを付けたのは米軍から要請を受けたから」ということでした。 中身を明かさないまま、ただただ「危険はない」とだけ繰り返す防衛局の回答に、むしろ不安と不信が募る結果となりました。
○2月18日午後、防衛局より電話あり。 ○文書での回答を求めていたのだが、結局、今回も口頭での回答 ○いつもは、冒頭で、文書回答を求めて、回答に入る前に、毎回、 以下、こちらから出した質問内容とそれに対する回答。 実際はこんなに理路整然としたやりとりではなく、延々と確認の
最初から期待はしてなかったが、 やはり、緑のケースの中身について、 防衛局は結局、まったく答えず。 ただただ「危険はない」と繰り返すだけの 実のない回答。
「国の責任でやる」と言って地元の反対を押し切って始まったこの米軍訓練、 これで国は、説明責任を果たしているといえるのか?
これでは住民の不安は 募るばかりだ!!
この防衛局の不誠実な回答について ご本人の了承を得て、以下、転載します。
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2月19日 (土) |
<米軍後発隊撤収>
いよいよ、最後の米海兵隊員たちが帰る最終日。 例のごとく、何時に出るのか、発表がないので、 70歳の早起き山下さん(下の写真、真ん中)が 朝6時からゲート前でずっと監視。
山下さんもさすがに今年は 遠くが見えない、 カラダが疲れるといいながら、 それでも、この役を買ってでてくれている。
山下さんからバスが入ったとの連絡が来たのが、8時半過ぎ。
この日は、昨日よりなんと1.5倍も人数が増えて、6人が参加! 実際、どんなに少人数の抗議であっても、 この最終日だけは、これをしないと、 自分たちの暮らしの切り替えができない気がする。 そんな人たちが集まるのが最終日。
午前9時ちょうど。 最後に残ったアメリカ海兵隊員ら、20人を乗せたバスが 私たちの前を出て行く。 Marines Go Home! Not to OKINAWA! Back to America!
後発隊を見送るとき、 いつも思うのは 外出した米兵らに直接手渡した お守り袋のメッセージ
そして、 海兵隊員らを乗せたバスが去った後、 日出生台には ようやく安堵の春が訪れ始める
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