「私の昔話」について


 私は今年の10月で79才になる・・(昭和17年10月の戦前生まれ)
 完全な後期高齢者です・・(苦笑)
 この歳になって最近、何故か昔の思い出が頭に浮かぶ事が多くなった・・
 時々、夢に出てくる様にもなった。
 私は定年退職したあと、自分なりの自分史を書いてきた・・
 少しずつ書いてきたが、大体書き終えて最終章のまとめに入っている・・
 二部構成になっていて、
 第一部は私の満州時代(四、五才)の頃から、子供・学生時代〜就職・現役時代〜年満退職まで・・。
 第二部は退職後の、九重にのめり込んだ「九重連山と光と影」の山行記・・。
 「九重連山の光と影」は膨大なボリュームなので、別に抜粋版の「プレミアム・心旅編」を創った。
 かなりのボリュームになり、第一部は、5センチ厚のコクヨファイルで5冊になった・・
 第二部はA4ファイルで今現在10冊になっている・・。
 私なりに生きてきた長い道のりを、記憶を頼りに思い出し、記述し、
 頭の整理をして、総括するのが目的である・・
 それをしないでただ漫然とあの世に行くのは嫌なのです・・
 そして、これを全部あの世に持っていき、あの世でゆっくりと読む事にしている・・(苦笑)。 

 自分史の最初の部分で母との思い出をいくつか書いた・・
 今書き終えてツラツラとしていると、それらが真っ先に頭に浮かんでくる・・
 今思うと、その思い出はその後の私の人格形成に大きく関係している事が分かる・・
 
 私は満州で生まれて昭和22年に引き揚げて来た・・
 なので、生活は非常に貧しく、狭い社宅で親子5人、食事する飯台がなくて
 大きなリンゴ箱にカバーをかけて食事したものだ・・。
 とにかく、毎日、いつも腹が減って、学校の帰りに八百屋の店先に売っているバナナを見て、
 ヨダレを垂らしていた・・。バナナ一本が買えない・・。
 今では到底考えられない事だ・・。
 でも、子供心にいろいろな思い出が沢山出来た・・
 それは、辛い事、苦しい事、楽しい事・・いろいろだ・・。
 それが、今ふつふつと思い出され沸いてくるのは何故だろうか・・。
 書き貯めた自分史の中から暇つぶしに「私の昔話」として、時々紹介しようと思う・・。
 
  山行記ではないので、興味のない方はパスして下さい。



   今まで紹介済みの「私の昔話」は下記の通り・・

 (その1) 最近思う事・・(母と大舟木へ・私の生涯のモチーフ)・・・・・H29.6.19 アップ
 (その2) 母と乗った小さな遊覧船・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ R1.7.12  〃
 (その3) たった一人の寂しいレコードコンサート・・・・・・・・・・・・・・・ R1.10.27 〃
 (その4) 嵐が丘(エミリ・ブロンテ)、60年ぶりの興奮、再び・・・・・・ R2.2.20  〃
 (その5) 私の初恋の話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  R2.9.26  〃
 (その6) 私が初恋をされた話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ R2.11.21 〃

                                      


     私の昔話 (その7)  私とオートバイ   R3.9.25 アップ


  すみません、これ私(オアシス)です・・。
  青春時代、独身時代・・真っ只中の私です・・
  若さがほとばしっています・・(苦笑)
  私は若いころはオトキチだったのです・・。


   今回は長いです・・
   興味のない方はパスして下さい・・。
   読む方は我慢して最後まで読んで下さい・・(苦笑)。




 私の独身時代を語る時にオートバイを抜きにして語る事は出来ない。

 オートバイには本当にお世話になった。

 お世話になったと言うよりも私の身体の一部分だったと言ってもいいくらいだった。

 そもそもは同じ職場の先輩のW氏、S氏が持っていたバイクに乗せられているうちに

 自分もほしくなったというのが始まりだった。

 最初はホンダの125CCのベンリーだった。

 入社何年目で買ったか忘れてしまった。

 このバイクはスポーツでもなんでもない普通の商用タイプで、あまりよく考えないで買ってしまった記憶がある。

 しかしこのバイクはよく走った。

 とにかく故障が無く、前車輪のボトムリンク式サスペンションが素晴らしかった。

 当時の釜石周辺の道路は今では考えられないくらいの悪路だらけでそれはひどいものだった。

 釜石〜花巻までの幹線道路も町の中だけは舗装されているが、

 町を一歩出るとそれはそれはひどい石ころだらけの砂利道で、大きなワダチで路面が波打っており、

 非常に危険な悪路だった。

 それ以外の県道、私道は言うまでもなく100%が砂利道だった。

 そんな凸凹の悪路でベンリーの前輪クッションは威力を発揮してくれた。

 ボトムリンク式サスペンションは悪路の凸凹を確実に吸収し、見てるだけで惚れ惚れしたものだ・・。

 4サイクルエンジンなのでカムシャフトのカシャカシャ音が気になったが、

 故障が全く無いのがやはり一番で、その信頼性は抜群だった。

 これはやはりホンダの技術という事だったのだろう・・。

 この故障がないという信頼性一点だけで、私は以後ホンダ一辺倒になってしまった。

 このベンリー125CCの次に乗ったのがやはりホンダのCB250でその次がCB450だった。

 バイクはこれで終りで婚約した26才で車になり、これもホンダの軽自動車N360だった。

 
 バイクの魅力はなんといっても まず自分の行きたい所へいつでも あっという間に連れて行ってくれる・・と

 言う事だと思う。

 思うままに自由自在という事かな・・。

 気が短い性格の私にピッタリ合ったのだと思う。

 第二に風を切って走る快感だった。

 それとカーブをきる時に身体をバイクごと傾けて走りきるあの爽快感は何とも言えなかった。

 そして次から次へと景色が変わり、その景色は私の感覚というか感性にピッタリマッチし

 胸がドキドキし、若い私の神経を激しく刺激したものだった。

 第三に、これは走っているうちにそうなったのだが、バイクに乗って自分を厳しい状態にあえて追いやり

 自分の精神を見つめ鍛えるという事になっていった。

 これはキザに聞こえるかもしれないが本当で、バイクのお蔭で私は精神面を相当に鍛えられたと思っている。

 当時は道路事情が非常に悪く、遠乗りは命懸けだった。

 結婚寸前の26才まで乗っていたので事故ったことも沢山あった。
 
 忘れられないのはいつかは覚えていないが、どこかにツーリングしての帰りで遠野あたりを走っている時だった。

 やはり砂利道で前をダンプ車が走っていたが、その舞あげる土埃は強烈なもので、

 追い越しのチャンスをうかがっていた。

 なかなかチャンスがないまましばらく走っていたら突然ダンプ車の通り過ぎたあとに大きな石の塊がドンと現れたのだ。

 その大きさは直径30pぐらいあったろうか。

 車間距離はたしか5、6メートルだったと記憶しているがもう避けきれなった。

 前車輪がその石の塊に乗り上げ私はバイクごと撥ね上げられ地面に叩きつけられたのだ。

 私は頭を打ったみたいで何秒か気を失ったみたいで 気がついたらダンプ車はもういないし 

 夢中で起き上がりバイクを起こし道脇に寄せた。

 頭がガンガン痛いのに気がつきヘルメットを取ってみたらまたビックリ・・、ヘルメットがガリガリのキズだらけで、

 ヒサシは吹っ飛んでなくなっていた・・。

 叩きつけられ頭を打った瞬間、「ああ、もうだめだ」と一瞬 頭に閃いたのを覚えている。

 本当に大失敗だった。

 ダンプ車の後ろになり、ホコリを被るのが嫌で 隙あらば追い越そうと、そればかりを考え

 車間距離などは考えずにギリギリに近寄って走っていたのが失敗の原因だった。

 今でいう危険予知が全然なかった。あとからいろいろ反省したが あの状況で追い越しはやはり無理だった。

 ああいう状況では追い越しは絶対にダメだ・・という事を頭に叩き込み

 2度と繰り返してはならないと自分に言い聞かせたものだ。
                           


 秋田の男鹿半島にツーリングした時の失敗も忘れられない。

 ナマハゲを見物し気持ち良く帰る途中だった。

 田園地帯を走っているうちに霧が出てきて視界がかなり悪くなってきた。

 注意しながら直線コースを走っていると突然道がなくなってしまったのだ。

 スピードは4、50q/hだと思うがあとは そのまま田んぼにドボンと飛び込んでしまった。

 道はそこで直角に曲がっており霧で見えなかったのだ。

 田んぼで本当に良かった。絶壁か壁だったらたぶんあの世に行っていただろう。

 ビシャビシャの田んぼに落ちたので自分では道路に持ち上げる事が出来ないので、

 近所のお百姓さんにお願いして手伝ってもらった。

 気がついた時は身体中泥だらけで、お百姓さんの庭で水をもらい身体を洗ったのを今でも覚えている。
                                  


 東北一周の旅は厳しいものだった。

 ベンリー125だったが今思うとよくもまあ頑張ったもんだと感心してしまう。

 このツーリングは月刊誌「オートバイ」に紀行文を応募し、載せてもらいそれは今でも記念として所持している。

 山形の親父の実家に寄り、歓待されたのが忘れられない。

 朝出発する時に叔母が来てくれて、これを持って行け・・と言ってゆで卵をもらい昼飯がわりに

 食べたのを覚えている。
 
 福島県に入り、会津若松から日光に行く時はきつかった。

 鬼怒川街道という山奥の谷間を走っているうちに暗くなってしまい、

 完全に真っ暗闇の中を走る事になってしまった。

 完全な山道で(当然砂利道)車が走る様な道ではなく、道幅が狭く左下は鬼怒川がゴーゴーと流れており、

 なによりも怖かったのが路面の大きなワダチだった。

 大きく波を打っており、ちょっとした弾みで転倒してしまう危険があった。

 人家は全くなく、真っ暗闇をバイクのライトだけを頼りに走り続け、

途中でひょっとしたら行き倒れになるのではと何回も思った。
 
 何時間走っただろうか、やっと部落の明かりが見えた時は「ああ助かった」と思ったくらいだ。

 その明かりの恋しさは今でも忘れられない。

 山の中の温泉村で、私はスタミナも切れていたので、転がり込む様に旅館に飛び込んだのを覚えている。

 あのゴーゴーと流れる川の音を聞きながら暗闇の中を走った恐怖は今でも忘れられない。

 次の日は日光のイロハ坂を登り、中禅寺湖見物をして常磐ハワイヤンセンターを目指したが

 国道4号線を居眠りしながら運転したのを覚えている。

 この辺りでスタミナも限界に達し、猛烈な睡魔に襲われ、2秒か3秒か分からないが時々トロトロとなってしまうのだ。

 睡魔に負けない様に大きな声で当時流行っていた中村晃子の「虹色の湖」歌いながら走ったのを覚えている。

 あの時は本当に厳しかった。本当に無茶な事をしたものだ。

 今考えると背筋がゾーッとする。

 次の日は仙台、花巻経由で帰ったが、家に着くやいなやオフクロが飛んできて無事を喜んでくれた。

 あの時のオフクロの嬉しそうな顔を今でも覚えている。



 次に乗ったのがCB250だった。排気量が2倍になった割りにはあまり強烈な印象はなかったが

 安定感は抜群だった。

 当時のメカは今と違って単純だったのでキャブレターをバラして自分で清掃したものだ。

 タペット調整や点火時期、ポイント調整などは当然自分でやったし、いろいろやりすぎて日没で暗くなってしまい、

 物置小屋で裸電球の照明を作り、夜遅くまでやったものだ。



 このバイクでS氏と一緒に青森の恐山に行った事があった。

 以前から是非行ってみたいと思っていた所だった。

 イタコというのに興味があった。

 下北半島を北上し、むつ市から山に入り、それを抜けた所に宇曽利湖という湖があり、

 そのほとりは火山ガスが噴出しており まさに地獄みたいな所で霊場になっていた。

 イタコという死者の霊を呼び戻しそれと会話をし、家族に伝えてくれる老婆がいる・・と聞いていた。

 しかしそれは毎日やっているものでなく、毎月決まった日しかしていないとの事でその時は会う事が出来なかった。

 しかし 私はここが好きになってしまった。宇曽利湖は亜硫酸ガスが多量に含まれ生物が住めないらしい。

 水は綺麗に澄んで、その向うに恐山がひっそりとたたずんでいる。

 聞こえるのは湖面を吹き抜ける風の音と地獄の噴出する音だけで、

 この異様な雰囲気の中で死者と会話を交わすと聞いただけで 引き付 けられてしまった。

 この時はイタコに会う事が出来ずにシブシブ帰ったものだった。
                                              

 このあといつかは忘れたが再度恐山にイタコを見たくて訪問した。

 この時はバイクは変わってCB450になっていた。

 たしか乗り換えて間もなくだったと記憶している。

 この時はソロツーリングだった。

 450CCの威力を確かめたいのと、イタコを見たいのがタイミングが一致したのだったと記憶している。

 さすが450CCは凄かった。

 国道4号線での追い抜き加速力はそれは素晴らしかった。

 その加速性能は圧倒的で本当に追い抜きに関してはなんの不安もなく、

 ちょっとスロットルを噴かせばあっという間に 追い越し完了・・。

 あの快感はそれは何とも言えないものだった。

 ダンプだろうが、乗用車だろうが、怖いものはなんにもなかった。

 CB450になってからは私の前を走っている車は1台もいなかった。

 私の前はいつも空間でその快感は今でも忘れない。

 恐山ではこの時はお祭?かどうか知らないが イタコが何人かいて客に頼まれて商売?・・をやっていた。

 登山道なんかにあるケルンみたいな横に座って 依頼人と対座して呪文みたいな事をムニャムニャと唱えていた。

 依頼人は霊と直接話す事はなくて イタコが霊を地上に呼んで依頼人の要望に応えて霊に話を伝え、

 霊からまた依頼人に話を伝えるという・・仲介人になっているそうだ。

 すぐ横には硫黄を吹き出す地獄があり、硫黄の匂いのする中で得たいのしれない呪文を唱えながら

 霊と話を交わす・・などという事はなんと不気味で不思議な事だろうかと当時の私にとって

 強く興味を引き付けられたものだった。

 恐山を見ながら生物の生息不可能な宇曽利湖の湖畔に時間の経つのも忘れて座っていたのを記憶している。



 そんなこんなでバイクは私の青春そのものみたいな存在だった。

 結局、結婚寸前までお世話になった。

 でも、バイクに乗る時は命懸けだった。

 自分を危険に遭遇させ、それとの戦いだった。                    
 
 自分を厳しく見つめ、厳しく律する事をバイクに乗る事により教えられたと思っている。

 ホンダのCB450が最後のバイクになった。ベンリー125CCに始まり、CB250、CB450とオールホンダとなった。

 当時はホンダでは450CCが最大だった。

 カワサキメグロの650CCが当時日本では最高の排気量だった。

 このCB450の加速感と安定感は抜群だった。

 スロットルをちょっとひねるだけでエンジンはバリバリと回転を上げ一気に加速し、

 ハンドルをしっかりと握り踏ん張らないと身体を置いていかれるくらいの迫力だった。

 この快感は今でも頭の中に残っている


 当時、ゼロヨンというのがあった。

 これは加速性能を表す当時の加速バロメーターだった。

 停止状態から発進し、400メートル走るのに何秒かかるかを競うものだった。

 CB450は当時は勿論最高ではっきりとは覚えていないがカタログ値で12秒くらいだったと記憶している。

 一回だけスピードのテストをした事がある。

 はっきりとは覚えていないが遠野の手前付近に唯一の長い直線道があり、そこでやってみた。

 危険なので他の車が来ない時しか出来ないのでそのタイミングが難しい。

 確か私のゼロヨンは15秒くらいだったと記憶している。

 スピードは145q/hだったと記憶している。

 はっきりと分からないのは時計とメーターを見る暇がないからだ。

 前方から目を離せないので ほんの一瞬しか見る事が出来ないのだ。

 今考えてみると本当に無茶な事をしたものだと思う。

 この145q/hが私のバイク、車を含めて出した最高のスピードで後にも先にもこれが最初で最後のテストだった。


 私はバイクでスピードは出さないでゆっくり走る事にしていた・・。

 大きなバイクに乗るライダーは、逆にゆっくりと静かに走ってこそ格好が良いし

 本当のライダーと思っていたからだ。


 ホンダのCB450は当時釜石では、私と、もう一人乗っている人がいて、2台しかないとかで少し鼻が高かった。

 販売店の関輪店の親父さんには色々と世話になった。

 安くしてくれたり、買ったあとの面倒見も最高だった。

 会社の帰り道に店があったのでほとんど毎日店に寄ってバイク談義をするのが楽しみだった。

 なんやかやと言ってバイクに触ってくれ、色々アドバイスをしてくれた。奥さんもいい人だった。                                                                         

 S43年暮れに婚約したが、その時もCB450を手放す事が出来ず、

 結局年が明けて結婚する寸前まで乗っていた事になる。

 婚約時代も今の家内を後に乗せてドライブをした事が数回あったが、やはり時代の流れで、車社会がやって来ていた。

 バイクに彼女を乗せてドライブなどというのはもう流行らなくなっていた。

 結婚が近づきなんやかやと忙しくなり、人や荷物を運ぶ事が多くなり、バイクはそうなると便利さではガクッと落ちてきた。

 車はほしいし、CB450を手放したくないし随分と悩んだものだ。

 これからの二人の生活もあるし、やはり2台は無理と考え、涙を飲んでCB450と別れる事にした。

 いつもメカの手入れはバッチリとし、ピカピカに磨いてはエンジン周りを眺めていたが、いよいよお別れの時が来た。

 私の身体の一部がもぎ取られる様な気がして悲しかったが、ボディを何度も撫でながら御礼を言い、

 最後の運転をし、関輪店に持って行った。

 関輪店の親父さんも私の気持を分かっていたし、色々慰めてくれたものだった。

 すぐに同じホンダの軽自動車N360にする事に決めていたが、親父さんは気をつかってくれ、

 かなり値引きサービスしてくれたのを覚えている。

 そんな事で私のオートバイ青春時代は終わった。
                                              

 オートバイには色々な事を教わったし、私の独身時代の最大の伴侶だった。

 前述した様に私の人格形成に大きな役割を果たしてくれた。

 厳しい事と楽しい事の両立を教えてくれた。

 そして苦しい時のいい相談相手となり私は何度となく助けてもらったものだ。

 今、改めてオートバイに御礼を言いたい。
                                                                            
       完

    
    長駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました・・