法華院五輪塔建立50周年記念 & 第10回法華院の会 特集レポート
           
           オアシス版・法華院物語
        

       (1) 法華院白水寺のルーツ
 
 
   絵がまずくてすみません・・でも、本当の事です・・(苦笑)
   
   ここは坊ガツルです・・
   
   朱色の建物は、「天台宗・法華院白水寺」という寺院である。
   
   今の法華院温泉山荘は、明治初期頃までは立派なお寺だったのです。
   
   お寺は明治15年の大火で消失し、山宿として生まれ変わり、法華院温泉山荘がスタートしたのです・・
   
   寺院があった場所は、今の観音堂横の階段を登った高台です・・
   (今のあせび小屋の後方の高台)
   
   右は三俣山・・・正面奥の崖は護摩堂岩・・・その奥が北千里ガ浜です・・
   
   昔、この様に社殿、鐘楼、大鳥居などがここに本当にあったのです・・
   
   そして、大勢の修行僧がここで修行を積んでいたのです・・
   
   この様な朱色の堂塔伽藍があったと想像しただけで胸が踊る・・
   
   立派な法華院白水寺が再建されました・・(冗談・笑)。
   
   社殿があった所は今は雑木林だが、今でも寺院の礎石が沢山残っている・・(下写真参照)
   
   大鳥居の門額には、「九重山大明神宮」と書かれている・・
   
   絵の様に社殿から三俣山麓にかけて、昔は樹齢数百年の杉、栂などが繁る原生林だったのです・・
   
   この立ち枯れ巨木は今も白水寺跡で4、5本見る事ができる・・(最下段の写真参照)
   
   鳥居の手前に、今もあるドッカリ大岩が見える・・
   
   H26年に、ここから「氷護法岩(こおりごほういわ)」(次回紹介)を通り、
   
   白水寺跡に行く参道が弘蔵社長の手で整備され復元した・・
   
   綺麗に手入れされ、「氷護法岩」の前には休憩ベンチも出来た・・
   
   私はこの時、この絵の様に、白水寺社殿も復元したら素晴らしいだろうなと思った・・(夢です)。
   
   雑木林を刈り取って、社殿の礎石全体がスッキリと見える様にしたら素晴らしいと思う。
   
   今度、社長にお願いしてみよう・・
   

   
   (1) 法華院白水寺のルーツ
  
  山荘には『九重山記』(後日紹介)という巻物が家宝として大切に保管されている。
  
  これは明和9年(1772年・江戸中期)に書かれた古文書で、法華院白水寺の開山時期、
 
  古記、当時の紀文、風物などが書かれている。

  『九重山記』によれば、法華院白水寺の開山は文明2年(1470年・室町時代・応仁の乱の頃)で、
 
  英彦山の養順法印というお坊さんが修験道場として建立したのが始まりである。
 
   (注) 開山時期については、もっと古いという諸説があるが、特定する史料に乏しく、
       ふつうはこの時期を採用している。

  寺号は白水寺、院号は法華院、坊名は弘蔵坊であった。
 
  しかし、開山から30年位は、厳しい気候からくる修験堂維持困難、食料難、
 
  毎年春に襲ってくる野火などによる焼失・・などで難行苦行の連続で堂塔は荒れ放題となった。  
 
  明応の頃(1492〜1501年・室町時代・銀閣寺が出来た頃)に、
 
  これを見かねた朽網城主・古荘下野守親光公が荒廃の状況を見て嘆き、再建の援助をした。
 
  この援助を受けて、天密活動も活発になり、上宮、中宮、下宮などの施設が出来て、
 
  里人、信者も登ってくる様になり、修験堂として発展していった。
 
  天正14年(1586年・豊臣秀吉の全盛時代)、豊後領主・大友宗麟軍を破った薩摩軍は

  豊後領内を荒し回り、法華院まで登って来て神社仏閣を焼き払った(天正の乱)。
 
  天正の乱の打撃は大きく、それから35年、生き残った社僧が茅庵を作り、
 
  細々と修業しながらの時代が続いた。
 
  しかし、山麓の人達の同情もあり、段々と再建も進み、一応寺院の構成が出来る様になった頃、
 
  元和7年(1621年・江戸前期)に英彦山より二位坊長円が入院した。
 
  このお坊は活動力旺盛で、郷内を布教して廻り、募金などもして護摩堂や上宮、中宮を造立した。
 
  その様な実力が認められ、同年9月に第11代院主を相続した。
 
  そして、この年から妻帯する事が出来る様になり、始めて法華院に女の声が聞こえる様になった。
 
  二位坊長円の子供が、法華院の傑僧と言われる第12代院主・勝光院豪尊(しょうこういんごうそん)である。
 
  
  勝光院豪尊の偉大な業績の概略・・
 
  【1】寛永9年(1632)、玖珠郡田野村民が度々国境問題で異議申し立てを行った。
    
     丁度この頃、岡藩主・中川久盛と、玖珠領主・石川主殿頭が
    
     肥後の熊本城を監護していた。
    
     そこに勝光院豪尊が法華院の本院に下げてある「鰐口の銘文」を写して持参し、
    
     それを証拠として差し出した。

     両国主はそこで相談して、岡領と玖珠領と肥後領の複雑な山の境界が一挙に解決した。
    
     帰国した中川久盛公はすぐに豪尊を城に呼び、その功を賞し、多くの録を与えると同時に、
    
     硫黄山の硫黄採掘権を与えた。
    
     これで法華院は大きな経済力をつけて発展していく・・。
 
  【2】その後の法華院の発展ぶりは目ざましく概略下記の通り。
    
    ・慶安3年(1650)  御本尊の十一面観音自在菩薩像と、不動明王と毘沙門天の脇士を建立。
    
    ・慶安5年(1652)  大鐘を鋳造し、鐘楼を建立
    
    ・延宝5年(1677)  本堂を大きく改造(4間×7間半)
    
    ・元禄2年(1689)  大鳥居を造立
    
    ・宝暦9年(1759)  上宮(中岳山頂下)に十一面観音自在菩薩像を安置

 
   このようにして、勝光院豪尊の功績が起点になり、岡藩主代々からの
 
   経済的、物質的な援助が続き、明治の初期まで続いた。

 

   しかし、明治維新後(1868年)、神仏分離令(廃仏毀釈)という国策により
 
   仏教排斥運動が広まり、白水寺もその荒波を被る事になり衰退していく・・
 
   更に明治15年(1882)には、不運にも大火に遭い、200年以上も続いた
 
   法華院の社閣を全焼するという惨事に遭う。
 
   法華院白水寺再興の道は絶たれてしまうが、幸いに温泉があったので、
 
   それ以後、入湯客相手の湯治宿を始めた。
 
   それが、弘蔵孟夫翁(現社長のご祖父)〜弘蔵祐男(現社長のご尊父)〜
 
   弘蔵岳久(現社長)と引き継がれ、現在の法華院温泉山荘に至っている・・
   
   
    いかがでしたか・・法華院白水寺のルーツ・・面白かったでしょうか・・
   
   今の観音堂の上の高台に、上図の様な朱色の堂塔伽藍の寺院があり、
   
   大勢の修行僧が寝泊まりし、厳しい修行をしていたのです・・
   
   九重山は、山岳宗教の場として山伏達が修行したのが始まりだったのです・・

   白水寺の開山は文明2年(1470年・室町時代・応仁の乱の頃)・・。

   山中の厳しい気候、薩摩軍襲来などで、衰退の時期もあったが、
   
   江戸時代前期に、第12代院主・勝光院豪尊という傑僧が現れ、
   
   法華院白水寺の全盛時代を築いた事も分かった・・
   
   そして、今の弘蔵社長は、勝光院豪尊の後の代を継ぎ、

   第26代院主・弘蔵坊 岳照住職として、法華院を守っているのです・・
   
   社長は山荘を忙しく経営、切り盛りしているが、法華院白水寺の住職でもあるのです・・
   
   岳照住職のお経は滅多に聞く事は出来ないが、毎年8月の「くじゅう慰霊の日」に出席すれば
   
   慰霊碑の前で聞く事が出来ます・・

   岳照住職のお経が九重の山々に響きわたり、それはそれは荘厳なものです・・。

   

    今の白水寺跡を歩いて楽しい事・・残念な事・・
   
   (1) 何といっても白水寺跡の礎石が分かる事が素晴らしい・・
       雑木林に埋まっていて、全体像がはっきりとしないが、大体の規模は分かる(下写真参照)。
   
   (2) 鐘楼の礎石ははっきりと分かる。
       鐘楼跡に立ち、遥か大船を望むと、若い修験僧が鳴らす鐘の音が聞こえてきます・・
   
   (3) 背丈は1メートルもないが、立ち枯れした巨木が4〜5本残っており、
       往時の原生林を偲ぶ事が出来る・・(下写真参照)
   
   (4) 勝光院豪尊の「氷護法岩」には圧倒される・・(次回紹介)
   
   (5) 上図の大鳥居の痕跡は今は何もない・・(残念)
       立石敏雄先生著の「九重風物志」によれば、昭和18年頃まで、今のあせび小屋の後方の
       灌木林中に、大きな鳥居が倒れていたそうである・・
       しかし、その後、あせび小屋の修理に来ていた人夫達が、暖をとるためにたき火に使い
       全く姿を消してしまったそうである。
       私(オアシス)はその礎石(基礎)だけでも見たいと思い、何度もあせび小屋後方を
       探索したが、見つけられないでいる・・
   
   (6) 上記【1】で記した豪尊が国境問題で証拠として差し出した白水寺の「鰐口の銘文」が
       昔の岡城中に秘蔵されていたと聞いたので、私(オアシス)はその鰐口(※)を見たくて
       今の竹田市・歴史資料館を訪ねて聞いてみた。
        (※)仏殿の正面に吊るした偏平中空の円形鈴で、参拝者が綱を振って鳴らす金属製の仏具
       しかし、岡城に関連する史料、史物は明和8年(1771年)の大火や、
       明治4年(1871年)の廃城令などのゴタゴタで無くなり、何も残っていない・・との事・・(残念)
   
   (7) しかし、何と言っても、この高台からの眺望は坊ガツルでナンバーワン・・
       正面に堂々たる大船と北大船、右に立中、左に平治岳・・眼下には大きく広がる坊ガツル湿原・・
       まさに九重の桃源郷の大パノラマだ・・
       山荘で買ったエビスビールを飲みながら、ここ白水寺跡に座り、この大パノラマを見ながら
       法華院の歴史、くじゅうの歴史に思いを馳せる時、
       「今日も、ここに来て良かった・・」との思いが、ふつふつと沸いてくる・・

        皆さんも、坊ガツルに来た時は、観音堂でお参りをして、白水寺跡に登って見てください・・
        きっと、法華院の歴史が目の前に浮かんでくるはずです・・
        山荘でエビスビールを買うのを忘れないで下さい・・(苦笑)


 
   観音堂横の階段を上った高台にある白水寺跡です・・
   手前の小高くなっている所が社殿の礎石で、右奥の雑木林まであり、かなり広いです・・
   草に埋まって分かりにくいが近くに寄ればはっきりと分かる・・
   バックは三俣南峰・・

 
  奥に進むと、尚はっきりと分かる・・
  しかし、この付近は完全な雑木林で、全体が分かりにくい・・
  手前の参道を100メートルほど下ると、「氷護法岩」がある・・

 
   立ち枯れ巨木です・・
   観音堂横の階段を登った所にあります・・
   直径は1.5メートルくらい・・デカイです・・
   この付近だけで、4、5本見る事ができる・・
   立石敏雄先生著の「九重風物志」によれば、
   上図の様に、法華院付近は、明治の末期までは、杉、ブナの大木が原生林の如く生い茂っていたそうである。
   しかし、明治32年頃より枯れ始め、明治末期にかけて全部枯れてしまったそうである。
   この樹木の枯死は、三俣山の裾から坊ガツルを下った湯沢山から平治岳の裾に及び、
   南は鍋割坂まで達した。
   また久住山直下の、久住分れ付近から空池付近にも3メートル位の雑木林が繁っていたが、
   これも全部枯れてしまったそうである。
   あまりに被害が著しいので、国(農商務省)から技師が調査に来たが、原因ははっきりせず、
   硫黄山の活動の激しさによってひき起こされたものだろう・・との事であった。
   これ以後、法華院付近の樹林は全て枯れてしまい、様相は全く変わってしまったそうである・・

    
      次回は「観音様(十一面観音自在菩薩像)」と、「氷護法岩」のルーツを紹介します
 
      ご訪問いただきありがとうございました・・