法華院 五輪塔建立50周年記念 & 第10回法華院の会 特集レポート

      
     (11) 梅木秀徳先生との思い出
   H30.10.12(金) アップ     


  H24.4.8日の松本ゆきお先生の「五輪塔への納骨式」の時の梅木先生です。
  私はこの時が先生と初対面・・。
  非常にお元気で、トレードマークのあごひげも健在だった・・。
  正式のスピーチをした後にも、自らしゃしゃり出て2度もスピーチをしていた。
  遺影の写真が松本ゆきお先生・・
  この時、私は松本先生は酒豪だと聞いていたので、一本持参し祭壇に手向けました。
  この話を梅木先生と話した時に、先生は
  「松本先生は根っこからの飲んべえで、お酒なら値段の高いものでも、安いものでも何でも良いみたいだ・・
   私は彼と違って値段の高い上等の酒しか飲まない・・」と冗談を言って笑っていた。


  梅木秀徳先生との思い出

 上の写真から8カ月後の12月20日の20時過ぎに加藤英彦氏から電話が入った・・

 梅木先生が19日に亡くなられたが聞いているか・・との事だった。

 私は知らなかったのでビックリ仰天してしまった・・

 21日に葬儀があると聞き、出席する旨を伝えた・・。

 たまたま、私は梅木先生が著された「九重山博物誌」を購入し読んでいる矢先だった。


 前月11月8日の「法華院の会」でお会いしばかりで、先生の隣に座り、美味しいウィスキーを

 御馳走になりながら、あせび小屋の話などを聞かせて頂いた。

 あれから40日しか経っておらず私のショックは大きかった・・。


 話はさかのぼり、梅木先生との始めての出会いは同年4月8日の

 松本ゆきお先生の「五輪塔への納骨式」の時だった。(上の写真)

 この時の先生はお元気だった・・

 先生の「坊ガツル讃歌」についてのスピーチが印象的だった・・。

 この唄は替え歌で、梅木先生、松本ゆきお先生、草野一人氏の3人が

 昭和27年夏にあせび小屋に泊まっていて、暇を持て余して、3人で歌詞を替えて作った唄である。

 歌詞は3人で考えてあっという間に出来上がったそうである。

 私(オアシス)が勝手に思うに、3人とも同じ九州大学の学生で、

 梅木先生は文学部・・、松本ゆきお先生、草野氏は理学部などの工学系なので、

 詞はほとんどは文学青年の梅木先生が創られたのでは・・と勝手に思っている(笑)・・。

 梅木先生は

  『あの詞には「メランコリー」とか、「もののあわれ」とか、「無我を悟る」とかいう言葉が入っていて

   当時は受けたが、今では死語になっている・・今の若い人はどう思うのだろうか・・』

   という様な事をおっしゃっていた。

 でも私(オアシス)は思う・・

 今の世の中にはこの「メランコリー」とか「もののあわれ」という感覚が全く不足して、

 人間も、世の中も潤いがなくなっていると思う・・。

 この事は話し出すとまた長くなるので今日は止める(苦笑)。

 そして、この唄は何故か坊ガツルにピッタリ合っていて、いつ唄っても盛り上がって大合唱になるのです・・。


 この日私は、会がお開きになったあと、一大決心の実行をした・・。

 梅木先生に、持参した本、「九重山・法華院物語」にサインを頂いたのである。

 梅木先生は、松本先生とこの本の共同編者で、”九重の山と人”という部分を受け持ち、執筆されている。

 私は、郷土史に詳しい文化人を彷彿とさせる先生の文章に感動していた。

 松本先生にもサインを貰いたかったが叶わなかったので、梅木先生には必ず・・と思っていた。

 私みたいな見た事もないどこかの馬の骨が、あの著名な梅木先生に近寄り

 サインを請うなどとは・・失礼になるのでは・・と迷ってしまった。

 でも、怒られるのを覚悟で実行する事にしたのです。

 恐る恐る、梅木先生にお願いしてみると、なんと「ああ、いいですよ・・」とおっしゃってくれたのである。

 私は「やった!」思い、心臓がドキドキしてしまった・・。

 梅木先生はスラスラと私の本にサインをしてくれた。

 私は天にも昇る気分でそのペンの動きを眺めていた・・。

 その頂いたサインが下の写真である。


   
 「法華院物語」の裏表紙に頂いた梅木先生のサインです・・(左側)
     
        「山に親しみ 自然を守り 人を愛して 仲間と語らう」

                           二〇一二.四.八
                                 法華院にて
                                   梅木秀徳   
  

 そして2年後の「山の日」制定記念祭・「坊がつる讃歌」歌碑建立の時に
 芹洋子に貰ったサインです・・(右側)
 「坊がつる讃歌」の作詞家と、歌い手の仲良しサインは貴重なものです(自画自賛・・苦笑)。
 私の宝物です・・。



 梅木先生の本職は、大分合同新聞社の、いわゆる「聞屋さん」で、

 最後は、取締役・論説委員長を勤めた人である。

 論説委員長というのは、新聞の社説を書いている最高責任者であり、

 新聞の主張を明確に述べると同時に、新聞の品格、責任を一手に背負っている部門である。

 その部署を長く勤められた超VIPな人なのです・・。

 登山家としても、数多くの実績がある・・

 ヒンドウクシュ・コーイモンデイ登頂の他、アルプス、ヒマラヤ、チベット・・などの踏破・探検多数・・。

 先生は私の思った通り、新聞人らしいリベラルで、ソフトな人間味を持った人だった。

 大分県を代表する言論人、文化人であり、知らない人はいない・・。

 何といっても有名なのは「坊がつる讃歌」の替え歌を創った一人で(下写真)、

 歌詞の一つ一つに梅木先生の九重に対する深い愛情が込められているのが素晴らしい・・


  「坊がつる讃歌」の作詞の三羽がらすの梅木先生、松本ゆきお先生、草野一人氏・・
  それと、あせび小屋の管理者・立石敏雄氏である。
  梅木先生が一番美男子でお洒落である・・。

 
   以上が、梅木先生と始めてお会いしたH24.4.8日の思い出話である。


 そして、7カ月後の同年11月8日の「法華院の会」で梅木先生と2度目の御対面をした。

 受け付けを済ませ、玄関の横にある喫煙室を見たら、見た事のある人が煙草を吸っている・・

 よくよく見たら梅木先生だった・・ビックリ・・

 御挨拶をして、4月にサインを頂いた話をしたら、私を覚えていて下さった。

 しかし、先生のお顔をみたら、前回よりも痩せて見えたので「どうされたのですか・・」と聞いたら

 先生は「夏に膀胱ガンを患って手術入院をした・・でも法華院の会は楽しみの一つなので今日は出席した・・」

 との事だった。

 そして、トレードマークの、あごひげもなくなっていた・・。


 私は会が始まってからも先生の事が気になり、終わり近くなってから

 思い切って先生の横に座り、一緒に飲もう・・と考えた。

 私みたいな馬の骨が御高名な先生の横に座るのは失礼かと思ったが、

 先生は嫌な顔をせずに相手をしてくれた。

 先生はウィスキーを飲んでいた。

 オールドパーだった・・。

 1万円くらいする私からすれば高級なウィスキーで、まず飲む事はできない(苦笑)。

 「君も飲みなさい・・」と言って私のグラスに注いでくれた。

 感激です・・

 先生は「法華院の水は名水だから、水割りは凄く美味いんだよな・・」と言いながら

 オールドパーを美味そうに味わっていた。

 私も久しぶりに高級なウィスキーを頂いた・・それも梅木先生と一緒に・・

 先生は、大分県山岳連盟の首藤氏と山の話をいろいろとされ、私は横に座って聞いていた・・。

 時々、先生のグラスにウィスキーを注いだり、法華院の名水の補給をしたり、バーテンの役をした(苦笑)。

 先生はお酒を本当に美味しそうに飲むので、かなりお酒が好きだな・・と思った。

 思い切って記念写真のお願いをし、ツーショット、スリーショットで数枚撮らして頂いた。


 梅木先生との記念写真・・
 ウィスキーを一緒に頂いたりして、楽しくお喋りをされたり、御馳走も結構食べておられたし、
 お元気に見えたのだが・・。
 右手前に高級オールドパーのボトルが見えます・・(苦笑)。



 会が終わった後も、中央のストーブの回りに集まり、先生を囲んで懇談が続いた。

 「九重の自然を守る会」の船津武士副会長とか、他の山仲間が座り、山談義をされていた。

 私は横から眺めていた・・。


 この時も、二日後に行われる初冠雪コンサートの四重奏メンバーが来ていて、

 サービス生演奏付きで坊ガツル讃歌を全員で合唱した。

 この日の夜は非常に寒かった・・。

 私は、我慢出来なくて、ダウンインナーと登山用ズボンを着たまま寝た・・。

 次の日の朝も、暗いうちに早起きして、キャンプ場まで散歩をした・・。

 残念ながらこの日は曇で綺麗な黎明は見れなかった・・。

 朝食を皆さんと摂ったあと、会は流れ解散となった。

 「法華院の会」は高齢の方が多いので、車を山荘まで数台入れて送迎している。


 会員の皆さんが皆帰ったあと、私はポリ公(以前、山荘で飼っていた犬)のお墓の草取りをした。

 一通り草刈りを終えて、ひょっと山荘の玄関を見ると、梅木先生が出て来られた。

 会員の皆さんはほとんど帰ってしまい、先生が最後の様だった・・。

 弘蔵社長と奥様と、「しんつくし山岳会」の数人が見送りに出ていた・・。

 私も飛んで行って見送る事にした・・。

 車は加藤英彦氏の車で、加藤氏が先生の手を取って車に案内していた。

 先生は体調が良くないのか、一歩一歩ゆっくりと歩いて車に乗った。

 先生は弘蔵社長に一言二言挨拶をして、車は走り出した。

 私は手を振り、お辞儀をしてサヨナラをした・・

 車は静かに砂利音を出しながら、坊ガツル街道を走って行った・・。

 これが、先生との最後のお別れになるとは・・

 どうしても考えられる事ではなかった・・。

 
 以上が11月8日の「法華院の会」で先生とお会いした最後の思い出である・・
      


 それから40日後の12月19日に梅木先生は逝去された・・

 21日(金)、私は先生の葬儀に参加した・・。

 大分合同新聞に訃報が出たらしいが私は気が付かなかった・・。

 加藤英彦氏から連絡を貰わなかったら、先生とお別れが出来なかった・・

 加藤氏に感謝します・・

 受け付けを済ませ式場に入ると、「坊ガツル讃歌」のBGMが流れていた・・。

 お元気だった頃の、あごひげ姿の遺影が飾ってあった・・。

 さすがに、大分県のVIP文化人・・200席くらいの席が満席で、会場の外まで溢れている様だった。

 溝口薫平氏は、湯布院・玉の湯会長名で出席されていた。

 九重町の坂本町長も出席していた。

 勿論、大分合同新聞社社長も・・

 その他に、VIP席に大勢おられたが私にはよく分からなかった・・。

 弔辞は3名の方が読まれた・・

 ・大分県山岳連盟・首藤宏史氏
 ・日本山岳会東九州支部長・加藤英彦氏
 ・「大分県の歴史と文化を考える会」の会長

 厳かな読経の中、式も終わり、献歌として「坊ガツル讃歌」を唄う案内があった。

 受付で加藤氏から、一緒に唄ってほしい・・と言われていたので私は祭壇前に出た・・。

 10人くらいだったと思うが、BGM付きで歌いました・・。

 私の前にいた女性が歌いながら泣いていたのが見えて、私も先生の遺影を見た途端、

 声が詰まり涙が出てきた・・。

 歌詞は新しいのではなく、オリジナル版で唄った・・。

 式が終わり、出棺まで時間があったので、ロビーで松本ゆきお先生の奥様と会い、

 少しだけお話しが出来た・・。

 松本先生も前年の3月に亡くなられていたので、奥様も、主人の大事な友人をなくして残念だ・・

 とおっしゃっていた。

 弘蔵社長とも少しだけ話が出来た。

 社長も 「2年の間に、九重にとってはかけがいのない大事な先生を二人も失って本当に残念だ・・」

 と言っていた。

 そして、こうも言っていた・・。

 「先月11月8日の法華院の会には、梅木先生は体調が悪いのに、
 
  かなり無理をして出席していたのでは」・・と。

 私も同感だった・・

 さらに私は次の様にも思った・・。

 今から考えると、梅木先生は「大好きな坊ガツル」と、「法華院の会の皆さん」に最後のお別れをするために、

 体調が悪いのを無理をして出席したのではないか・・と。

 大好きなお酒を飲みながら、山岳会の旧友とか、「九重の自然を守る会」の人達と

 会が終わったあとも、おそくまで談笑していた姿が私は忘れられない・・。



 先にも書いたが、私は梅木先生著の「九重山博物誌」を読んでいる最中だった。

 その中の「文学散歩」という所が面白く、これを頼りに私も九重山麓の文学散歩をしてみよう・・と

 思っていた。

 分からない所があったら、先生にお会いして、いろいろお聞きしよう・・とも思っていた。

 しかし、それも出来なくなってしまった。

 本当に残念でならない・・。

(後記)この「文学散歩」がきっかけとなり、
     ・川端康成の「千羽鶴」、「波千鳥」・・
     ・小野喜美夫氏の「朝日長者」・・
     ・青木牛之助の千町無田開拓・・
    へと、私の九重への探求は広がっていったのです・・。
    この広がりは今考えると物凄い広がりであり、梅木先生に感謝する最大の要因だ・・。


 梅木先生が九重に残した功績は計り知れなく大きい・・

 郷土史の見聞は素晴らしく、著書も「九重山博物誌」、「大分の伝説」、「大分百山」など多数・・。

 特に「九重山博物誌」に書かれている、山と人、伝説の世界、登山の歩み、文学散歩・・など

 その広く、深い博識には驚くばかりである・・。

 それを象徴する話がある・・

 先生が保有する蔵書は4000冊もあり、先生の自宅の書斎(2FL)は書店顔負けの書棚で埋まり、

 本の重みで床が抜け落ちるではないか・・と奥様は心配したそうである。

 先生が亡くなったあと、奥様はその蔵書を全部竹田市に寄贈した。
 
  詳細は竹田市HP・写真ニュースを御覧ください・・


  リンク切れで見れない場合はこちらで御覧ください・・

 奥様と、岳友だった加藤英彦氏(日本山岳会東九州支部長)と、

 首藤宏史氏(大分県山岳連盟顧問)が相談して決められたらしい・・。

 個人として4000冊の蔵書は、いくら聞屋さんにしても、気が遠くなる様な数である。

 立花隆ではないが、「大分の知の巨人」と言っても良いかもしれない・・。

 先生は、職を辞されたあとも、あちこちで講演をされて評判が良く、引っ張りだこだったそうである。

 享年79才・・本当にまだまだお若くて残念至極としか言い様がない・・


 それにしても、竹田市の首藤市長は素晴らしい人だと思う・・
 最近では、市立図書館をあっさり建て替えたり、現在、市立歴史資料館を建て替え中である。
 歴史・自然保護、教育に力を入れる首藤市長の人間味が感じられる。
 梅木先生の蔵書を一手に引き取り、市図書館に特別コーナーを設置するなどというのは
 なかなかない事だ・・。


 以上の様な意味で、梅木秀徳先生は、九重山のみならず、

 大分県に対しても残された功績は計り知れなく大きいと私は思う・・

 先生の、九重のみならず、大分の山を広く知らしめた文筆活動・・

 郷土愛あふれる山岳文化の探求・・

 九重をこよなく愛した心情・・

 それらを考えた時、私は何の躊躇もなく、法華院・五輪塔に祀る事に決めたのです。

 という事で、私(オアシス)は勝手に、法華院・五輪塔に梅木秀徳先生を祀っているのです。



 坊ガツルから梅木先生がいなくなってしまった事は本当に寂しい事だ・・。

 でも、私は、たった2回であるが、先生とお会い出来たし、お話しも出来たし、

 一緒に酒も飲めたし、何よりも梅木先生の人間味に触れる事が出来たのが嬉しい・・。

 私は九重を本格的に歩き始めて15年になるが、最初はこの様な著名な先生達に会えるとは

 思ってもいなかった。

 「法華院の会」を通じて、素晴らしい「山の達人」、「人生の達人」に会えて本当に幸せだと思っている。

 梅木先生、短いお付き合いでしたが、本当にありがとうございました。

 心より御礼を申し上げ、御冥福をお祈り致します。

     
     ご訪問いただきありがとうございました・・

     次回は、最終話 (12) 船津武士先生との思い出です・・