法華院五輪塔建立50周年記念 & 第10回法華院の会 特集レポート

     
     
(4) 「九重山記」 オアシスのファンタジーの旅 (後編)


       黒字が芳梅聞(オアシス)の文章で、茶色字が現代のオアシスのコメントです(笑)。

 寅の刻だろうか、鐘楼の鐘の音で目が覚めた。

 外に出てみると、白々と夜が明けようとしていた。

 そして、見た事がない様な神々しい景色が広がっていた。

 霊峰大船山と、それに連なる峰々が黒いシルエットになり、

 澄み切った黎明の中に浮かんでいた。
 
  
上の写真・H23.4.17の開山祭時に撮影・・
 
  北大船付近から太陽が昇って来そうだ・・


 「ああ、これこそが霊山・法華院白水寺に相応しい神仏と共に迎える夜明けだ・・」

 私は大船山に向かって手を合わせた・・。


 若い僧侶達が忙しそうに動き回っている・・。

 炊事をする者、掃除をする者、水を汲みに行く者・・。

 皆、忙しそうだ・・。


 朝食をいただき、二日目のお参りの旅に出発した・・。

 今日も勝万院院主と、若い付き添いの僧侶が一緒だ・・。

 院の裏から三俣山の方を見ると、鬱蒼と繁った原生林と、遠くに奇岩奇石が見える。

 原生林の中を進むと杉の巨木が数本立っていて、朝靄(もや)の中に佇んでいる。

 更に進むと、今度は大きな松の木があった。

 院主は言った。

 「この松の木は天狗松と言い、九重山の天狗様が飛ぶ時に、

  これに止まり中休みをするのです」

 松の木の根元には、弁天様を祀った小さな石の祠があった。

 更に三俣山に向かって登ると、大きな断崖絶壁の下に着いた。

 この岩の下に一丈(約3m)四方の護摩堂があった。

 修験僧達は日夜、ここで修業しているそうである。

 それで、この付近の断崖絶壁を「護摩堂岩」と名付けたそうである。


 現在の護摩堂岩です・・
 
法華院山荘の裏の砂防ダムの上方にある断崖絶壁です・・
 上奥に見える山は三俣南峰・・
 法華院山荘から北千里ガ浜に上がる登山道は、昔は今とは反対側の
 この護摩堂岩の直下であった。
 弘蔵社長が言っていた。
 「私は以前に、昔の修験僧が使った護摩堂を見た事がある。
  しかし、ここは崩落の激しい所なので、今はもう崩れてしまい、ないかもしれない」・・と。
 私(オアシス)は先日、護摩堂を探してみたが、全然分からなかった。
 物凄く広いし、断崖絶壁で危険な所なので、近づく事も出来なかった。


 護摩堂岩の下を登り詰めると広大な砂礫の広場に出た。

 「千里ガ浜(せんりがはま)」と言うのだそうだ・・。

 広場の中を砂の川が蛇行しながら流れていた。

 院主は言った。
 
  「この上流に硫黄山という活発に噴煙を吹き出している火山がある。
  
   その山の火山石が長い年月をかけ、砂になり、川となって流れている。
  
   まさに神仏が創った世界である」

 私も思った。

 九重という山の中に、この様な砂漠の世界があるなどと思いもしなかった。

 千里ガ浜をしばらく進むと中宮に着いた。

 それは小高い丘の上にあり、一丈八尺(約5m)四方くらいの立派なお堂だった。

 中はかなり広く、奥正面に祠があり、その中に十一面観音自在菩薩像が奉られていた。

 ここでも、恐れかしこみながら、お参りをさせて貰った・・。


 これが、現在の中宮跡の祠である・・
 私(オアシス)はこの付近を通る時は必ず寄る事にしている。
 スガモリ越を北千里ガ浜に下りて、すぐ真向かいにある小高い丘の一番奥にある。
 残念ながら、十一面観音自在菩薩像とか、お堂は跡形もない。
 あるのは、祠と、首の折れた仏像一体だけである。(上写真)
 ここ中宮も、護摩堂も、下宮も、明治の廃仏毀釈の迫害を大きく被った。
 仏像類を迫害から守るために、猿岩付近の岩塊とか、
 護摩堂岩の間に隠したそうである。
 廃仏毀釈の難が去ってから、弘蔵孟夫翁(今の弘蔵社長の御祖父)は
 多くの人を使って探したが、見つける事が出来なかったそうである。
 また孟夫翁の話によると、猿岩から中宮付近も大きな木が茂る樹林帯だったそうだ。
 しかし、今は木らしい木は一本もない・・。

 (後記) しかし、残念ながらこのこの祠も、H28.4月の地震で崩落し、
      メチャメチャになってしまった・・
      仏像だけはなんとか助かっているので、引き続きお守りするつもりだ・・
       (この件は前回・7月16日のレポートで報告済み)


 中宮を後にし、上宮に向かう・・。

 再び広大な砂礫の広場の中を進む・・。

 右手には硫黄山が見える。

 噴煙がゴーゴーと音を出し、猛烈な勢いで空に舞い上がる・・。

 そして、噴煙は、ある時は北に流れ、またある時は南に流れ

 激しい地鳴りが辺りに響きわたり、この世の悪霊達がざわめいている様に見えた。

 勝万院院主は言った。

 「こここそが、我々俗人が修行する本来の修験堂である。
 
  以前12世院主・勝光院豪尊が百夜の間、連夜で上宮に参拝した時に、ここに寄り、
 
  この硫黄山にも願をかけ祈り、ついに十一面観音自在菩薩の示現を見た。
 
  私もその思いを継いで修行をしている」・・と。

 私はその通りだと思った。

 人間は、自分に都合の良い所ばかりを見て物事を判断してはいけない・・。

 正反対の自分の悪い部分も素直に見なければならない・・。

 楽な所には真実はなくて、むしろ苦しい所にこそ真実はあるのではないか・・。

 院主の言葉を聞いて納得したものである。


 北千里ガ浜を南進し、上宮に向かう・・。

 岩場の急坂を苦労して登り切ると、広場に出た。(今の久住分れである)

 高さ一丈(約3m)余りの雑木林が左右に延々と広がり茂っていた。

 
私(オアシス)はここでも驚いた。
 今の久住分れ付近には木らしい木は一本もない・・。
 孟夫翁の話によると、西千里ガ浜から空池の北壁付近まで
 一丈余り(約3メートル)の雑木が茂っていたが、坊ガツルの下宮付近と同じ様に
 明治33年頃から枯れ始め5年後の明治38年頃には
 すべて枯れてしまったそうである。



 左手に道を取ると、水のない大きな窪地(下の池)が見えた。(今の空池である)

 院主は言った。
 
  「昔、ある猟師が汚れた履物を池に投げ込んで汚したため、
 
   神が怒ってこの池の水を全部上の池(今の御池・みいけ)に移動させてしまった。
 
   上の池と下の池の落差は100歩ほどの岩場で繋がっているが
 
   上の池の水が下の池に流れ込まないのは、やはり神が存在する証拠だ」・・と。

 
御池と空池の伝説である。

 御池はやはり神が創った池である。

 霊池に相応しく、水を湛えて波がなく、宝鏡が開いた様に光り輝いている。

 この池の水は日照りが続いても減る事がなく、大雨が降り続いても増す事がなく

 水の量は不変である。


 途中には、十二の経塚があった。

 手で探ると文字ははっきりとしてそのままである。

 御池の縁を一登りすると、ようやく上宮に着いた。

 この付近は「賽の河原」と呼ばれ、荒涼とした岩稜地帯である。

 九重では最も標高が高く、特にこの付近は風の通り道になっており

 いつも烈風が吹き荒れ、山の過酷さでは九重一であろう・・。


 御存じ、池ノ小屋です・・
 小屋周辺の広いガレ場を「賽の河原」と呼んでいる・・
 小屋の入口横に去年9月に「昭和5年夏の遭難慰霊碑の案内板」が
 取り付けられた最新の池ノ小屋の写真です・・
 この賽の河原に「上宮」があったのです・・


 上宮のあった本当の場所は、私はいろいろ探索したが、特定出来ていない・・
 この写真は、池ノ小屋の屋根の上から中岳方面を俯瞰した賽の河原です・・
 仏像と書いてある所に、壊れた仏像が数体ある・・
 小屋入り口から約30メートルくらいです・・
 ここが上宮跡と思われるが確証がない・・



 仏像です・・全部首から折れています・・
 廃仏毀釈の難で、折られたのでしょう・・
 一体は破断面がはっきりしていたので、接着剤で私がくっつけました・・
 くっつけたばかりなので、板で押さえて重しをのせています・・
 苦しくさせてすみません・・今は重しはありませんから・・
 もう一体は後ろにありますが、破断面が不定形でくっつけられないので
 周りの石で押さえています・・お顔は半分壊れています・・
 前に首だけのもの一体・・胴体だけのもの一体・・があります。
 私は以前の様にここに行けなくなったが、行った時は必ず寄って手入れ清掃をしている。
 寄ってくれる人が結構いるみたいで、お賽銭が沢山ある・・
 ワンカップはいつだったかの寒い日に、温まる様にと私が置いたものです・・



 そんな厳しい場所に上宮は立っていた。

 上宮はそんなに大きくなく、一丈二尺(約3.6m)四方の石室である。。

 中には十一面観音自在菩薩、不動明王、毘沙門天の二大脇士の

 金の像が中空に輝いている。

 ここの菩薩は、久住山・猪鹿狼寺と共同で祀っている。

 めでたい雲気が天地に合して、仏法界に満ち満ちている。

 ここは九重の山の上、天と地が雲で繋がっている様に見える・・。

 観音菩薩は長年の風雨に曝されたせいか、お顔は苔むしていた。

 幾星霜の苦労を考えた時、私の胸は熱くなり、心を込めて平伏し

 お参りをさせて貰った・・。

 
ここにおられた十一面観音自在菩薩と不動明王は、
 今は久住町・常楽禅寺におられる。
 私(オアシス)はH22.12月にお会いしている・・


 これが上宮におられた観音様と不動明王です・・
 毘沙門天は行方知れず・・だそうです。
 常楽禅寺でお会いした時の感動は今でも忘れる事ができない・・
 この苔むしたお顔と、お体を見て、胸がつまってしまったのです・・
 百十数年の間、九重で最も過酷な賽の河原で、修業僧の心の支えとなっていた・・。
 明治の廃仏毀釈の難を逃れるため、里の村人達が命懸けで常楽禅寺まで担ぎ下ろしたそうだ・・

 上記の様に、今はこの上宮が建っていた痕跡は全く見当たらない・・。
 池ノ小屋の正面に首の折れた仏像四体が奉られているだけである。
 芳梅聞住職も、勝万院院主も、勿論、勝光院豪尊も
 約100年後の明治元年に神仏分離令という国策により廃仏毀釈運動が起こり
 仏閣、仏像が激しく破壊されたり、迫害を受けるなどと想像しただろうか・・。
 神道だけを認め、仏は廃して釈迦も捨てる・・。
 考えて見ると凄い事だと思う・・。
 明治政府は何と恐ろしい事をしたのだろうか・・と驚いてしまう。
 何千年と続いてきた日本人の根本思想、精神文化を
 一気にぶち壊した様に思う・・。
 日本全土に広がり、寺院、仏像類は激しく破壊された。
 廃寺に追い込まれたり、僧侶は神官や兵士に転職する者や、
 寺院の土地や宝物を売り、逃げ出していく者もいたという・・。
 私は宗教の事は何も分からないが、国はなぜこのような事をしたのだろうか・・。
 激しい迫害は明治4年(1871)には終息したらしいが
 その後も政府による仏教弾圧は続いたという事である。
 ここに静かに立つと、信仰の山・九重の悠久の時の流れをひしひしと感じる・・



 またそのそばに経堂の跡があり一つの宝の銭瓶が埋めてある。

 院主が言った。

  「ここは正月二日、山の信者が集まり、国家安全、五穀豊穣を祈とうする所である。

   ここに洗米をお供えすると、二羽の烏(からす)が飛んで来て米をついばんだ。

   この烏は大明神のお使いである。

   山中にはただ一つがいの雄雌が生息するだけで、

   毎春雛を育てているが、別に殖える事がない。

   これもまた不思議な事である」・・と。


 お参りを終えたその時、上宮からの景色が一変した。

 下宮(本宮)上空に烈しい光が起こり、

 本御門が急に陰となり、翠の嵐が吹きまくっている・・。

 北御門の方は明るくなって晴れ渡っている・・。

 三股嵩(今の三俣山)の雲は雨ガ池に宿っている龍を目覚めさせ様としている・・。

 ああ、何と尊く有り難い光景であろうか・・。

 勝万院院主は言った。

 「芳梅聞殿、これで、貴方様と二人で上宮に参拝に来た甲斐があったというものです。
 
  あの烈しい光は、仏が二人の修業を認めて下さったという証でしょう」・・と。

 私は今までに感じた事がなかった充実感を身体に感じた・・。

 今回の九重大明神への参詣は私のこれからの修業の大きな糧になるに違いない・・。


 ふと東南に目を向けると、清泉が湧出し、小さな沢が流れている。

 これがあちこちの水を集め、川となって麓の村々に流れ出て、百種も播いた種子が

 よく生え育ち、五穀が実っている。

 そして、君臣がお互いに仲よくし、一般の民衆が喜び楽しむ事が出来るのは、

 皆、霊池の恵みである。

 これこそが先人が残した恵みであり、九重の神の賜物である。

 ああ、何と尊い事であり、有り難い事であろうか・・。

 私は深々と頭を下げ、十一面観音自在菩薩にお礼を言った。

 日もかなり傾いてきた・・。

 九重大明神に心からお礼を言い、院主と共に賽の河原を下りた・・。

 
この清泉と言うのは、今の久住山と稲星山の間にある「神明水」だと思われる。
 ここの水は、九重広しと言えど、山頂付近では唯一の飲み水で
 大変貴重なものである。


 二日間にわたる法華院白水寺を巡る参詣は終わった。

 山岳宗教の厳しさと、その歴史に触れる事が出来て

 それだけでも私のこれからの修業の大きな糧になるだろう・・。

 そして、今も真剣に山にこもり、鬱蒼と繁った神聖な森の中に身を置き、

 修行をしている若い僧侶達を見て、学ぶ所、大であった。

 法華院・白水寺の益々の発展を祈り、院主に心からお礼を言い、寺をあとにした。

 若い僧が一人、鉾峠(ホコントウ)まで見送りに来てくれた・・。

 「いろいろお世話になりました・・ありがとう・・」と言い、お別れをした・・


 
芳梅聞に成り代わり歩いた、法華院白水寺参詣の旅も終わった。
 まるで夢でも見ている様な旅であった・・
 約240年前の法華院白水寺と、九重山を訪問し見る事が出来た。
 圧巻はやはり、朱色に塗られた光り輝く本堂の堂塔伽藍だった。
 勝万院院主にも会えたし、勝光院豪尊の功績にも触れる事ができた。
 中宮、上空にも参拝する事が出来た。
 枯死する前の本堂周辺の原生林も見る事が出来た。
 そして、廃仏毀釈という非情な歴史と現実も知る事が出来た。
 時代に翻弄された法華院白水寺の様々な変わりようにも驚いた。
 反面、改めて九重の素晴らしさを知る事も出来たのである。。
 先人達が残した九重に対する愛情を、現代の我々は引き継いでいかなければならない。

      「九重山記」 オアシスのファンタジーの旅   完


    次回は  「(5) 昭和5年の遭難慰霊碑に込められた壮大なロマン」の予定です・・
    時代は江戸後期から昭和5年まで、一挙に約160年を一ッ飛びです・・
    やっと、「法華院の会」に縁(ゆかり)のある人達が登場してきます・・
    お楽しみに・・

     
       ご訪問いただきありがとうございました・・