静から動−エベレストまでの道(2)
                     大平 展義

           
               
サロマ湖100kmマラソンのゴール

 ナンガ・パルバットの失敗で、翌々年に計画されていた、エベレスト西稜は延期された。その後、主力になる筈の中嶋が白馬岳で、早坂が北ア大天井岳で、佐藤がヒマラヤ遠征中トゥインズ( ギミゲラチュリ、敢えてこう書こう)3君が相次いで帰らぬ人となり、戦力を逸し、農大のエベレストは叶わぬ夢かと諦めかけた。2000 年に再び計画が上がり、いよいよ世界の頂点に農大の旗が立つと思われたその冬に、今度は現役学生諸君が北ア船窪岳で合宿中遭難、3 名もの若くして尊い生命を失う傷ましい事故が発生した。遭難対策、事後処理、山岳部再建に翻弄され、再度エベレストが延期された。また会員の中で、エベレスト遠征を一番熱望していた桜井さんが不治の病に侵されていると本人より手紙が届く。

 しかし、儚くも夢半ばで達し得なかった、早坂、馬場、中嶋、佐藤君等、情熱的に山を愛し元気であらば、きっと参加しただろう若山、濱田、引間、3君の意志に報いる為にも、農大でエベレストへと2003 年三度目の計画が出来上がった。その前年の夏、エベレスト委員を務める小笠原君と都内で酒を呑む機会があった。2 人は酒豪である。杯が進むにつれ、共に参加したナンガ・パルバットの失敗談も出る。そしてエベレストの話にもなる。満を持したように、俺行きたいね、と告げる。それから帰宅して明、暗繰り返しの日々になるのである。

舞台は出来上がっているのだが、もう使える台詞はない。崑崙、ナンガで使い果たしている。言葉が思い浮かばない。3ヶ月の長丁場、軍資金も要る、やっと切り出したのが、帰宅後2 ヶ月程経ってからである。しかし後で知るのだが、女房は外部からの情報で既に感知していたのであった。「エベレストへ行きたい、行かせてくれ」その時女房、目の前にノートパソコンを開いていた。何時来るの、何時かは来る、来た! 私の顔を睨み付け、ガッシャッ!! マウスでシャットダウンではない、そのままパソコンを閉じてしまった。かなりのデーターが破壊された。その後は一触即発ぎくしゃくした会話が続く。何とかしなければ、それとなくタイミングを見はかりながらも、この時ぞ、と夕飯の際切り出した「タノム行かせてくれ最後のチャンスだ!」 と言った瞬間「アナタには最後が何回あるの!!」と同時にテーブルの上にある食器を思いっきり床に投げつけ部屋を飛び出して行った。投げつけられた器は原型を留めぬ木っ端みじんに砕け散ってしまった。スワー! 今投げられたお皿は、有田焼ではないか!? ヤバい、本気だ、女は打算的であり、計算もする。とっさの時でも、瞬時にスーパーあたりで買った安物のコップや皿を壊す。これは本気で反対している。戦略を変える事になる。砕け飛び散った食器は勿体ないのであるが、我が家の高級食器の中身は大したことはない只の漬け物であった。

 戦法を変えることになった私は、1人では説得できず、その説得役に友人、知人、平素は全く交流のない3 つ上の姉まで担ぎだした。それでもダメとなるや、最後の手段、我々2 人の高校の恩師まで引きずり込んでしまった。恩師藤原泰郎先生は、高校では社会公民科の教鞭をとられ、部活では女子ハンドボールを率い、高校ハンドボールの完全優勝を成し遂げた名将で名高い。その教え子は、日本の代表選手として全国で活躍中である。付して我々の仲人でもある。しかしそれほどの大物応援隊にも依然了解がとれず、年が明け焦りを感じ始めたころ思わぬ展開で同意を得る。それは出発まで2 ヶ月をきっていた。それから本格的準備に掛かった。ミーティング、個人装備の調達等で上京を繰り返す、新聞テレビの取材、遽しくも熱が入りモチベーションが一気に上がっていった。
(つづく)

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