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姫野和記先輩久々に帰国(2002.7.26)
 
    第一ホテル内レストランルミエール(大分市駅前)のロビーにて(ほかに塩地さんも)

 
一昨年、40年近く勤め上げた職場を退職後、休む間もなく第二の人生を求めて海外へ雄飛し、現在フィリピンで農業技術指導に携わる姫野和紀氏が健康診断のため7月初め一時帰国した。退職から出国までが慌ただしかっただけに、慰労会や激励会もままならなかったことから、氏の一時帰国を機に‘姫野和記氏フィリピンNGO活動報告会’と称して、7月12日、久々に14名の旧知の仲間が集い、氏を囲んで団らんのひとときを過ごした。
 久々に会った氏は、現在フィリピンの高標高地帯で(主として野菜栽培の技術指導に従事)生活していることもあり、退職時80kg近くあった体重も60kg少々とスリム化され、その分トレードマークの‘眼’の輝きが一段と増し、物静かな中にも精悍さを漂わせていた。
 この日は大阪から松田氏が駆けつけたほか、重鎮・梅木氏や西氏、それに丹生氏など多彩な顔ぶれが揃い大分の夜は当然のごとくエンドレスであった。
 ところで常連の数人が不参加となったのは残念だった。仕事や家庭の都合はやむを得ないにしても、健康上の理由というのは問題ですぞ。一番若い窪田、栗秋両氏にしても五十路に入ったことからしてこのメンバーの平均年齢は推して知るべし。しかしここに来て年齢と健康が必ずしも相関しないことが判明。
元気そうで何より

主婦業が忙しい塩地さん

木浦鉱山に「名水の湯」完成
(2002.6.30)
 「すみつけ祭り」で知られる宇目町木浦鉱山に「歴史の里・木浦名水館(木浦地区ふれあい施設)」が完成。オープンは7月1日。温泉の乏しかった大分県南部・宮崎県境の登山に楽しみが増えた。入浴料は町民210円、町外者420円。問い合わせは同館(電話0972−55−4154)
              

  会友・栗秋正寿氏″山の旅人″が
      郷里で熱い講演
(2002.6.18)
(以下は6月18日付大分合同新聞朝刊記事全文)

 冬のマッキンリーに単独登頂したり、リヤカーを引いてアラスカを縦断するなどし、「山の旅人」と自称する日田市生まれの栗秋正寿さん(29=福岡市在住=が15日夜、祖父の章一郎さん(83)が住む日田市刃連町の公民館で講演した。

 同町老人会が教養活動の一環として開催。約100人が、ムース(ヘラジカ)の角を掲げたり、スライト゜を使ったりして大自然のロマンを語る栗秋さんに釘付けになった。 

 少年期の3年余りを日田市で過ごした栗秋さんは、日田の自然の中で釣りをしたりした楽しい経験が登山へとつながったことなどを語った後、冬山やアラスカ住民との触れ合いを熱っぽく語った。

 栗秋さんは昨年2月〜3月に53日間かけて、アラスカのフォレイカー(標高5,305m)に単独登頂。今年も1月から挑んだが、暖冬で雪が軟らかく雪崩の危険性が高いため途中で登頂を断念。山にとどまってオーロラなどを撮影した。下山の後、知人のいるアラスカ北極圏の小さな村・ワインズマン(人口20人)を訪れた。

 講演ではスライドで、アラスカの人が「母」と呼ぶフォレイカーから見た「父」のマッキンリー(標高6,194m)と「子」のハンター(同4,442m)を染める夕焼け、フォレイカーの山頂に舞う雪煙、悪天候で7日間もこもった雪洞、雪に残るカラスの足跡などを紹介。

 登頂を断念したからこそ撮影に専念できたオーロラ、ワイズマンの知人が行うオオカミなどのわな猟は、聞く人をアラスカに導いた。

           

         (関連記事→山の旅人・栗秋正寿 )


加藤会長らによる改訂版
「大分百山」上梓さる
(2002.5.3)
          
以下4月29日大分合同新聞夕刊記事より
 県内の百名山踏破を目指す登山者に人気のあった登山ガイド「大分百山」の改訂版(A5版・227ページ、1,500円)が10年ぶりに日本山岳会東九州支部から発行された。5月2日から県内の主要書店に並ぶほか、支部部事務局にも備える。
 東九州支部は1980年の支部創立二十周年で発行した記念誌の中で「大分百山」を選定した。その後、ふるさとの山をもっと知ろうと、百山を中心に月例山行を重ね、創立三十周年に初版を発行した。出版部数はかなり多かったが、すくに売り切れた。県外からも増刷の注文が多かったが、資金的な事情から絶版となっていた。
 この10年間にルートが変わったり、遊歩道が整備された山もある。半面、通れなくなった場所などもあり、全面的に調査した。選定替えも行い、津波戸山(山香町)や大将陣山(日田市、山国町)など10の山が新たに百山入りした。
 編集担当の加藤英彦さんは「県内外の愛好者の県内登山の手引として活用してほしい」と話した。
 事務局は大分市府内町1-3-16、サニースポーツ(電話097−532−0926)内。

我がホームページ、大朝日紙のローカル版紙面を飾る(2002.2.15)
 どこで聞きつけたのか、正式公開から数日を経たある日、当HPが朝日新聞大分県北版担当番記者?の知るところとなり、おゆぴにすと編集長が取材に応じた。その結果がこの新聞記事。折から、公開後アクセスカウントの伸び具合に一喜一憂のスタッフ一同、記事が掲載された2月15日以降のアクセス数を注視したものの、それより前と大した変わりなしでがっかり。それもそのはず、立派な記事に仕上げていただいたものの、肝腎のアドレスから‘ne.’の英小文字が欠落していたことが判明。・・・そう、アドレスは「点」(ドット)1個打ち間違えただけでも届かないのです。「う〜ん、画竜点睛を欠くとはこんな時の言葉かな・・・」(2月20日編集長談)

          
                           
加藤英彦氏 エベレスト街道トレッキング報告会及び還暦祝いの夕べ(2002.2.9)
 第一ホテル内のレストラン・ルミエールにて、午後5時半からビデオによるネパールトレッキングの報告講演、続いて6時半から還暦祝いのセレモニーののち酒宴に入った。13名の山仲間に囲まれ、この日まではやし続けたひげと、わざわざこの日のためにトレッキングスタイルでの講演にこだわった加藤会長のご満悦の様子が印象的であった。

   

 還暦挨拶:「2回目の還暦までは無理にしても、六十にして念願のヒマラヤの地に足を踏み入れることができた。でも今回はほんの‘さわり’の部分でしかない。ピークは無理にしてもヒマラヤにはいろいろな接し方がある。今後はゴーキョ、カラパタールなど何度でも足を伸ばしたい、気心の知れた仲間とともに。天気に恵まれ2001年の最後〜還暦の誕生日をエベレストを臨むヒマラヤの地で迎えることができ感無量。良い思い出を作ることができた。」 

          

 お祝いの詞(わざわざこの日のために大阪から駆けつけた松田篤司氏):「加藤さんの行程からみると年末休みにあと1日プラスすれば(私も)同行できたのに・・・。そのわずか1日がとれない宮仕えのさびしさ、悲しさ。でも出発前日、自分の部屋に泊まってもらい見送れたし、(これがもしかしたら見納めか・・などと思ったのに)今ここにこうして元気な報告会に自分も参加することができて良かった。「六十の歳にヒマラヤへ!!」は、酒の席の肴だけではなかった。結局、加藤さんが一番山への情熱があったということ。次回は大勢で行きたいものだ。

  

 ところで、もうひとつ予定していた例の「ホームページのデモ」はどうなったか?って、・・・この晩の主役は何といってもやっぱり加藤さんだわな。

おゆぴにすとホームページ正式公開(2002.1.30)
 昨年11月から3か月近い準備期間をおいた「山のいで湯愛好会のホームページ」が、去る1月30日に正式公開に踏み切った。この日は午後7時に編集部一同が編集長邸に集い、立ち上げ式なるセレモニーをうやうやしく執り行なったのち、「山を愛し、秘湯を愛し、山と人とのかかわりと新たなるロマンチシズムを求めて」とのコメントを付したメールを大分ケーブルインターネット管理人あて発信し、正式公開手続きを完了した。もちろん、そのあと、この3か月の編集部員の労苦を互いにねぎらいつつ美酒に酔いしれたことは言うまでもない。何せ、2月9日に迫った加藤会長還暦ネパールトレッキング報告会の席でデモをやろうと、それに間に合わせるべく、結構しんどいここ数カ月だったのです。

          
          「常に何かにかこつけて飲みたいのネ」(おゆぴにすとの妻たちの陰の声)

加藤会長、還暦記念のヒマラヤ行(2001.1.27〜2002.1.4)
 我が‘山のいで湯愛好会’会員の中で最長老の加藤英彦氏は、記念すべき還暦の誕生日(2002年1月1日)をネパール・ヒマラヤで迎えるべく、昨年暮れ日本を発った。前々から‘2002ワールドカップ大分大会開催’の年にヒマラヤ遠征を!!と、会員諸氏は意気込んでいたものの、いざふたを開けてみると結局、会長独りのみで、他の会員はこれまでヒマラヤを酒の肴にしただけであったのか・・・。「次回は皆と一緒に」との会長の切なる気持ちを真摯に受け止めようぞ、会員諸氏よ!!

      

高瀬正人会員の娘の結婚披露宴におゆぴにすと集結(2001.12.15)
 高瀬正人・洋子夫妻の次女・麻利子ちゃんの結婚式が、去る2001年12月15日に盛大に挙行され、加藤会長のほか、大阪から松田会員も駆けつけるなど、おゆぴにすと5名が「父の友人」として見届け役を果たした。何しろ我々おゆぴにすと仲間では、どの子であろうが、ガキの頃から一緒に山のいで湯にお供してもらった、立派な「会友」なのだから。言ってみれば甥・姪みたいなもの。「娘を嫁にやる親の気持ちがわかった」といつになくしんみりした父親・高瀬であった。 
 
          

栗秋和彦会員、青島太平洋マラソンを熟年快走!!
 
何を血迷ったかこのところ、早朝あるいは深夜と寸暇を惜しんでのトレーニングに余念のなかった氏は、表記マラソン大会(2001年12月9日)に挑戦。40歳代最後となる記念すべきフルマラソンを3時間26分9秒で見事完走。「走友」(ランニング仲間の愛用する‘焼き鳥とワインの店’での快気炎となった。 (詳細

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