日本山岳会東九州支部 加藤英彦支部長 挨拶要旨

皆さん 本日はようこそ第15回植村直己冒険賞受賞記念講演会山の旅人栗秋正寿「アラスカ垂直と水平の旅」にこのように多くの方お越しいただきまことに有難うございます。

私は本日の講演会を主催いたしました日本山岳会東九州支部支部長の加藤です。

さて本日の講師栗秋正寿さんはさる6月4日植村さんの出身地である兵庫県の豊岡市において15回目の植村直己冒険賞を受賞されました。まことにおめでとうございます。栗秋さんがなぜ今日ここで講演できるようになったのかその辺の紹介は後ほどということにしてまず植村直己さん、そして植村直己冒険賞についてすこしおさらいをしてみましょう。

皆さん方少しでも山に興味のある方は冒険家植村直己という名前はきいたことがあるでしょう。

そうです4人目の国民栄誉賞を受賞された方ですから。

生まれは兵庫県の北部の日高町 現在の豊岡市というところです。1941年S16年2月12日 現在生存しておれば70才古希ということです。植村さんが1度大分に講演にこられたことがありますがそのとき私も話を聞いた記憶があります。

1960年明治大学入学、すぐに山岳部にはいっています、そして当時の私立大学の山岳部で鍛えられています。20人の新入部員が1年で5人に減っているくらいのしごきがあったようだがそれを耐えた4年間がその後の植村さんのすごさの原点になったようです。

4年間山ばっかりのぼっていて無事卒業はしたのだが就職もせずすぐに日本を飛び出しています。

1966年モンブラン単独登頂(ヨーロッパ大陸)キリマンジャロ単独登頂(アフリカ)1968年アコンカガア単独登(南米大陸)そのついでにアマゾン河6000km筏くだりという冒険1970年エベレスト日本人初登頂 松浦さんと、その夏マッキンリー単独登頂 これで世界初の5大陸最高峰登頂者となった。このころよりかれは登山家というよりどちらからといえば冒険家の方向にめざしていったようである。

日本列島3000kmを歩いて縦断という冒険をやりとげ植村さんの目は極地にむかっていったようである。極北の村でくらす、そして1974年には北極圏1万2000km犬ソリの旅。1978年には北極点単独ゾリ到達、つぎに1983年南極に向かったがフォ−クランド紛争にて断念そして1984年2月冬季単独マッキンリー登頂して下山中消息をたった。

以上が簡単に植村さんの生涯をふりかえってみたのですがすべて冒険にみちております。

たったひとり厳しい自然のなかで行動を読けた冒険家、その生涯をかけて人間の可能性に挑戦しつづけたといえるとおもいます。

さてその「植村直己冒険賞」とは世界的な冒険家である故植村直己の精神を継承し、周到に用意された計画に基ずき不撓不屈の精神により未知の世界を切り拓くとともに人々に夢と希望そして勇気をあたえられた創造的な行動業績について表彰することを目的とする。

日本人であること、年に1回。過去の受賞者

さて本日の講師栗秋さんのプロフイールについてはお配りのレジュメをご覧ください。

なぜ本日かくも簡単に栗秋さんをおまねきできたのかを紹介しましょう。

ご本人がたんに大分の日田出身ということだけではありません。

そのメンバーの中に本日の講師栗秋正寿さんの叔父さんにあたる栗秋和彦さんがいたということで今回受賞した一報をきいてすぐに叔父さんを経由して本人のスケジュールと会場の都合で今日の会が無事設定できたというしだいです。

実は13年前平成10年9月にもここコンパルホールにて正寿さんが冬季単独マッキンリーに登った時にもその会を中心に講演会をひらいておりますがその時の聴衆はわずか55名でした。

今回 かくも多数のかたが集まってきたのも植村直己冒険賞という重みでしょうか。

まさに正寿さんが地方区から全国区へと認知されたからだとおもいます。

最後に私が 植村さん、栗秋さんこのお二方を学習していくうちに共通点をみつけました それを紹介しましょう、そのキーワードは

1)       「単独行」

2)       「アラスカ」

3)       「フリーター」

以上 の3つの点で全く似通った2人であるとおもいました。

それぞれについては皆さんなりに考えてみてください。

今回の正寿さんの受賞はまさに植村精神の後継者であるということでしょう。

いやむしろこの受賞は遅すぎたというひともいるくらいです。

 本日は梅雨のさなか、そしてこの蒸し暑いなか すこしでも極寒のアラスカの話をきいて涼しさを味わってください。そして若い人たちが栗秋さんの話をきいてこれからの人生にすこしでも役立てればとおもいます。

長くなりましたが私の挨拶とします、ありがとうございました。